今日目の前で人が怒っているのを見た。
50代とおぼしきスキンヘッドのおじさんが、説明に納得いかなかったのだろう。立ち上がり怒鳴っていた。
「外に出ろや」というお決まりの台詞と、机を叩く威嚇のオプションも添えて。

平行線の議論によって、おじさんの言葉の端々から噴火の気配が感じ取れた。
しかし彼はキレるべきでは無かった。彼の幼稚さを露呈するだけだったから。


誰がどう見ても、おじさんが怒っていることが伝わっただろう。
と共に大人げないなと思ったことだろう。


怒りの矛先が私じゃ無かったことが大きいが、私はすごく冷静におじさんを見つめていた。
おじさんは相談したかったのだろうか?
なだめすかして欲しかったのだろうか?
辛かったねと同情されたかったのだろうか?
それとも世界を意のままにしたかったのだろうか?


私は、怒鳴るという選択肢しか持っていないおじさんを憐れに感じた。
何もしていない私が徒労感を感じた。
おじさんに必要だったのは怒ることじゃなく伝えることなのに。
そしておじさんは怒った瞬間にその場の全員を敵に回し、ひとりぼっちで戦うことを余儀なくされた。

怒りとは人を孤立させる感情かもしれない。
怒りという形で吐き出しても、気持ちは相手には伝わらない。
怒りで伝えてしまうと相手には“怒っている事実”しか伝わらなくなる。
また感情に飲み込まれ本当に伝えたいことも後回しになってしまうんだ。

それって発信者と受信者、双方にとって良くないよね。


イライラ程度なら仕方無いけど、公共の場所で怒鳴るレベルの怒りを出すのは止めてね、おじさん。皆が驚くし、ネガティブな空気に包まれるから。


ひとしきり怒鳴った後、おじさんは逃げるように帰っていった。
冷静さの欠片が僅かばかり残っていたのだろう、傘もちゃんと忘れずに。