会話はライブだから、多少の語弊は仕方がない。
文法がおかしい、言葉足らずなのは目を瞑るし、お互い様だと思っている。
あくまで会話ではさらりと流れている「コミュ力」や「コミュ障」を丁寧に見直したいなと思って書いてみた。


大勢の人が翻弄されている。
今日も話し掛けられなかったな、せっかく話題を振ってもらったのに何も返せなかった…
相手の反応が薄いから会話が続かなかったなど。

ああ何て私はコミュ力が低いことだろうと思うことはいくらでもあるだろう。
そして、「コミュ障でごめん」と防衛線を張ったこともあるだろう。


個人のコミュ力の高い低いも確かに存在するが、結果的にはその場にいる皆の力を足し合わせたものがコミュ力になると思う。
相手との共同作業だから、誰と一緒に行うかによって高い低いも変わってくる。
同じ趣味やバックグラウンドを持つ人同士なら会話も弾むし、“喋らない”コミュニケーションが通じる相手なら疲れなくて良い。
(そうか、喋らないのも充分コミュニケーション=意志疎通 になり得る!)
よって自分一人で「コミュ障」という十字架を背負う必要は無いのだ。


そうは言っても、相手がどんな人だろうと心地よい空間を共有出来れば嬉しいし、やはりコミュニケーション力は欲しい。
コミュニケーションも筋肉のように使わないと衰える一方だから、欲しいと望むだけでは何も変わらない。

でも結局コミュ力って何なんだろう?
コミュ力とは青い鳥かもしれない。
理想を掲げて求めるのも大事なことだが、それよりも日常の一つ一つの人との関わりを再考し積み上げる努力の方が大事なのではないか。