「電脳コイル」を観返してみた。
当時私は中学生。登場人物の6年生は誰もがタイピングスピードが速く、敗北感と共に羨ましさを感じたのを覚えている。
改めて観ると、確かに一昔前のNHKアニメらしく、子供向けのノリが強く、垢ぬけない部分もたくさんあった。ただ大人になった今、見てもハッとすることがある。
まず主人公の二人の「ユウコ」。片方は優しい子と書いて優子。確かに優しいキャラクターだが、私は彼女に優柔不断さとずるさを強く感じた。
自分が善人でいるために、周りの人を無意識に犠牲にしている。偽善くさい。
ただ普段私達だってやりがちな事でもある。優しい自分でいるために心を配る。
分からないことを分からないと言わないために、周りの人が神経を磨り減らして察しないといけない状況が生まれる。
昔見たときは典型的な良い子キャラの優子に疲れたが、今見ると優しさを絶対的な善と置かずに、その中の弱さや偽善まで含めそのまま描き出しているんだなと気付き(またもう一人のユウコに偽善だと見破られているのもいい)、昔見た時よりも共感できた。
次に、12年前のアニメにも関わらず、今のテクノロジーを予言するかのような設定が多いのに驚く。
電脳眼鏡をかけるとVRを体験することが出来、子供たちに欠かせない遊び道具となっている。
あるエピソードで、起こった事故が電脳眼鏡のせいではないかと親たちが不安がり、眼鏡を取り上げてしまうシーンがある。
子供たちが土手に集まり途方に暮れる。眼鏡が無い状態で何をして遊べばいいのか分からないのだ。裏切った友達にバッタリ会っても
、“喧嘩”する気力も起きない彼ら。
電脳眼鏡を、ポータブル型ゲームやスマホと言い換えても何ら違和感がない。
もうひとつ気になったことがある。自動運転を行っていた車が女の子をはねてしまうのだ。
電脳眼鏡に夢中だった本人のせいだという大人や、あの日一緒に行かなかった僕が悪いと自分を責めてしまう同級生。
段々導入に向けて進められている自動運転化。
事故の責任は誰が取るのかという議論を思い出す。
正しいかは分からないが、加害者を憎むことで被害者遺族は救われる余地があったのに、自動運転だと一体誰を恨めばいいのだろう。
VRは電脳眼鏡、Pokémon GOに夢中でひかれた人は、上記の女の子を想起させる。そして、画面の世界に熱中して現実に帰ってこれないゲーマーは、画面の向こうに行って帰ってこれない電脳コイルの子供たちと被る。
舞台設定となった2026年まで後6年。
後6年でどこまで近付くのだろうか。