名建築を歩く「江戸東京たてもの園」(東京都・小金井市) | ひつぞうとおサル妻の山旅日記

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ひつぞうです。
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名建築シリーズ9

江戸東京たてもの園

℡)042-388-3300

 

往訪日:2023年2月11日

所在地:東京都小金井市桜町3-7-1(小金井公園内)

開館時間:(月曜休館)

(10月~3月)9時30分~16時30分

料金:一般400円 大学生320円 中高生200円

アクセス:西武新宿線・花小金井駅南口からバスで小金井公園西口バス停まで約5分

駐車場:小金井公園内 第1有料駐車場

 

《昭和モダニズム建築の金字塔》

 

ひつぞうです。東京に降雪を齎した週末。小金井市にある江戸東京たてもの園を訪ねました。当園は東京都が運営する江戸東京博物館の分館として1993年(平成5年)に設立されました。似たような施設として博物館明治村(犬山市)がありますが、前者は東京都に存在した江戸から昭和にかけての屋外文化財を蒐集している点が特徴です。以下往訪記です。

 

★ ★ ★

 

江戸東京たてもの園は広大な小金井公園の敷地内にある。電車・バスは乗り換えが面倒なので、環状八号線経由で旧五日市街道をマイカーで西に向かった。路傍には前夜の降雪の跡があったが、渋滞もなくスムーズに進んだ。専用の駐車場がないので公園のコイン式駐車場に止める。最奥西寄りに停めると正門までは近い。

 

 

公園の芝生はどこまでも真っ白に覆われていた。散歩中の柴犬が嬉しさのあまり、雪の上でのた打ち回っている。開園は9時30分。並んでいるのは僕らだけだった。

 

「張り切り過ぎだにゃ」サル子供かよ

 

《園内案内図》

 

園内は広い。そして建物の数も充実している。同じペースで鑑賞すると、時間が幾らあっても足りない。予め優先順位を決めておくことをお勧めする。僕らは西ゾーン「山の手通り」に並ぶ昭和モダニズムの傑作群と、敬愛する高橋是清邸をじっくり鑑賞することにした。

 

★ ★ ★

 

旧自証院霊屋

1952年(慶安5年)新宿区富久町

寄贈者:西武鉄道㈱

 

 

正門を潜って最初に眼に飛び込んでくるのがこれだ。霊廟が勝手に移設されていいのだろうか。説明によれば三代将軍・家光の側室お振の方を祀ったものらしい。日光東照宮で腕を振るった宮大工の豪華な意匠が眼を惹く。しかし、なぜ寄贈者が西武鉄道なのだろう。用地買収の際に移設が決まったのだろうか。

 

「そのあたりを知りたいにゃ」サルサル裏話めっちゃ好き

 

徳川家の霊廟は悉く戦災で焼けてしまったので大変貴重らしいよ。

 

高橋是清邸

1902年(明治35年) 港区赤坂七丁目

 

 

明治~大正期の政財界で辣腕を振るった高橋是清の私邸。金融通として知られた是清翁だが、私生児として出生し、苦学して出世した苦労人なんだ。この時代は帝大を卒業して大蔵省に入って政界に転出というのがパターンだったからね(今でもあんまり変わっていないけど)。

 

 

なので是清翁の人生がこの屋敷で営まれたかと思うと感銘も一入だ。その『自伝』は近代の名著のひとつに数え上げられる。

 

「ふむふむ」サルまあ聞いちゃろう

 

 

晩年は髭面の丸眼鏡でツンツルテンの風貌。“達磨さん”の愛称で親しまれた。

 

 

意匠は控えめながら総栂造り。良質の建材で設えられ(外国の賓客を想定してだろうか)天井が高い。

 

 

是清翁の揮毫「不忘無」の軸が掛かる。「無かるを忘れず」だろうね。

 

 

欄間のデザインも剛毅かつ風雅。

 

 

ここが是清翁の寝室だった二階の間。皆さんもご存知だろうが、87年前の今時分、就寝中だった是清翁はとち狂った青年将校が放った凶弾に倒れた。しかし、ここでは(二・二六事件について)何も記されていない。建物と是清翁を忍ぶのに、血腥い歴史の暗部は必要ないのかもしれない。

 

前川國男邸

1942年(昭和47年) 品川区上大崎三丁目 東京都指定有形文化財

寄贈者:前川紘一氏、前川悠二氏

 

 

今回のお目当てはここである。

 

「前川國男って表札が出ているにゃ」サルどーしてちょっと傾いているのち?

 

前川國男の名前は一部の建築を専門としているエンジニアしか知らないかもしれない。ル・コルビジェに私淑し、戦後日本のモダニズム建築をリードした偉大なるアトリエ系建築家なんだ。その弟子に丹下健三がいる。知っているよね?

 

「チャンバラのひと?」サルわかんな~い

 

丹下左膳やろそれ。代々木競技場東京都庁を設計したひとだよ。その孫弟子に黒川紀章や(二箇月前に亡くなられた)磯崎新がいるんだ。もうね。すごい人たちなんだよ、みんな。

 

「なんか聞いたことあるかも」サル

 

 

どうよ。これ。住みたくならない?

 

「おサル、こんな別荘が欲しー」サル

 

はいはい。

 

 

切り褄型の中心に吹き抜けのサロンを設けて、背面の幾何学的構成の採光窓から、暖かみのある光と柔らかな影が綾を成すように設計されている。モダニズム建築は無駄な装飾を排した直線構造と短絡しがちだけど、前川國男の意匠には上質な仕掛けがあるんだね。

 

 

和と洋の折衷になっているでしょ。因みに先日拝観したエゴン・シーレ展会場の東京都美術館東京文化会館も前川作品。師匠のル・コルビジェが設計した国立西洋美術館を囲むように立っていて興味深い。その他にもたくさんの美術館の設計を手掛けたんだ。

 

 

家具もおしゃれ。

 

 

当時は珍しいメゾネット。

 

 

お風呂場も白黒二色のタイル貼り。

 

 

寝室も漆喰とフロアリングの無駄を排除した構成。

 

 

キッチンも白。ヨーロッパ風だよね。これが1942年(昭和17年)建築だから驚くよ。戦時中で資材も乏しかったからね。そういう意味で奇蹟の館なんだ。

 

 

家族団欒のスペースを中央に配置しながら、自分の研究・思索用の書斎はキチンと確保した。

 

「今のお父さんには書斎なんかないもんにゃ」サル

 

 

当館は1973年に一度解体されて保管されていたそうだ。しかし、よく復元できるよなあ。その技術もすごいと思う。シンメトリカルで調和に満ちた建築だ。

 

小出邸

1925年(大正14年) 文京区西片二丁目 東京都指定有形文化財

寄贈者:大山みどり氏、小出剛史氏

 

 

大正モダニズム建築の名作のひとつ。少し確認しづらいが、急勾配な宝形屋根に矩形の張り出し部が同居している点が特徴。設計は堀口捨己(1895-1984)。1996年まで使われていたそうだ。

 

 

和洋折衷、非対称なデザインが堀口の真骨頂。料亭や旅館、茶室も多く手掛けている。でも建築史では(その後の昭和モダニズムと繋がりをみせる)大島測候所が有名かもね。

 

 

こんにちは。

 

「お邪魔しますにゃ」サル

 

よそん家にあがる感じ。

 

 

応接間

 

とってもネーデルラント風。

 

 

と思ったら二階は超和室。

 

 

台所も…

 

 

お風呂場も…

 

 

超超和モダンだった。

 

 

天気がいいと建築も映えるね。

 

デ・ラランデ邸

1910年(明治43年) 新宿区信濃町

寄贈者:三島食品工業株式会社

 

 

朱色のスレート屋根と垂直なファザード(ギャンブレル屋根というそうな)が印象的な西洋式建築。そもそもは明治の物理学者・北尾次郎が自ら設計した私邸だった。それをドイツ人建築家ゲオルグ・デ・ラランデが大改修。今の姿になった。大家族なデ・ラランデだったが、残念ながら41歳の若さで亡くなった。その後、幾度か所有者が変わり、最後にカルピス発明で大成功を収めた三島海雲が買い取り、1999年までカルピスの事務所として使用されていたそうだ。

 

 

内部はデ・ラランデ時代に復旧されている。この一階大広間は現在カフェになっていてランチできる。

 

 

採光窓が狭いのが特徴的。壁紙やランプシェードなど、内部の意匠はアールヌーボー風。

 

 

最初はここでランチも…と考えたが、開業前だし、とにかく寒かった。他の建物で武蔵野うどんを食べることにした。

 

 

これは女子が好きそうだね。

 

 

二階に上がってみた。

 

 

寝室も広い。しかし、どの建物もすごい寄贈品ばかりだね。相続が大変だったんだろうね。

 

「われわれ庶民には無縁だにゃ」サル

 

そういうこと。

 

三井八郎右衞門邸

1952年(昭和27年) 港区西麻布三丁目 東京都指定有形文化財

寄贈者:三井高實氏、三井公乘氏、三井之乘氏、淺野久子氏

 

 

ここはすごいよ。旧三井財閥の惣領・八郎右衞門高公氏(1895-1992)の邸宅だよ。戦争で旧宅が焼失したので全国の三井家関連施設から資材を調達して、終戦後に建設されたそうだ。

 

 

時代が時代ならば、そう易々潜れる建物ではないんだよ。

 

 

アールヌーボー風の電灯。

 

「お邪魔しますにゃ」サル

 

 

一階書院の間は京都油小路三井家の奥書院を移設したものだそうだ。

 

 

素晴らしい。明治30年頃の建設だとか。

 

 

襖絵は京都四条派。

 

「ぜいたきゅー」サル

 

 

廊下も長いね。11代高公氏は戦前の長者番付常連だったというから、その栄華は推して知るべし。

 

 

厨房が広い。レストラン、いやそれ以上だ。

 

 

二階は高公氏の寝室。

 

 

そしてシャンデリア。かつて大磯の別荘《城山荘》にあったもの。

 

 

そのまま奥の土蔵に繋がっている。

 

 

梁には「明治七申戌歳建之」の文字が見られる。駿河町三井越後屋の絹蔵と云われる。

 

常盤台写真場

1937年(昭和12年) 板橋区常盤台一丁目

寄贈者:田中藤二郎氏

 

 

昭和10年に東武東上線・武蔵常盤台駅の開設にあわせて分譲された郊外型住宅。

 

 

新興富裕層向けの郊外型分譲住宅の雰囲気をよく表している。

 

 

戦前なので和室はマスト。

 

 

隣りには隠居部屋も。時代を感じるね。僕らの爺さん世代に辛うじて残っていた。

 

 

子供部屋。僕の実家も最初はこんな感じだった。兄妹も多かったから個室なんて贅沢だった。

 

 

二階がメインの写真室。照明設備がない時代だったので、巨大な採光窓から光が差し込むように設計されている。

 

「おサルもこんな処で撮ってもらった」サル

 

田園調布の家(大川邸)

1925年(大正14年) 大田区田園調布四丁目

寄贈者:須藤満氏

 

 

コロニアル風のバルコニーが張り出したレモンイエローの外観が美しい。

 

 

居間を中心にして部屋と部屋が隣り合う設計。《居間中心型》と呼ばれた間取りは、渋沢栄一が設立したディベロッパー、田園調布株式会社が分譲した住宅のスタイルだった。こちらも数回所有者が替わっているが、1993年まで使われていたそうだ。

 

「田園調布にすみたい」サル

 

浅間山麓の別荘じゃなかったの?

 

「田舎暮らしが好い」サル鳥飼って卵産ませるのち

 

田園って名前だけで都会だよ。

 

「…」サル

 

モダニズム系はだいたい以上。他にも観たけど載せきれない(笑)。最後に(一般的にはこちらが人気の)東ゾーン“下町中通り”へ!

 

 

植村邸

1927年(昭和2年) 中央区新富二丁目

 

 

「変わった建物にゃ!」サル

 

所謂《看板建築》が並んでいるエリアだよ。関東大震災でそれまでの町家造りの建物が崩壊したんだ。復興の際に手間がかからず、また余震が来ても崩れないように、銅板でファザードを覆った建物が流行った。その多くはバブル期の地上げによって悉く失われた。ごく一部がここ江戸東京たてもの園に残っているんだ。

 

丸二商店(荒物屋)

昭和初期 千代田区神田神保町三丁目

 

 

こんな建物があったんだね。浅草のかっぱ橋近辺にもこれに似た物が残っていたように記憶する。

 

子宝湯

1929年(昭和4年) 足立区千住元町

 

 

「お!サルの好きなお風呂」サルコウブツ

 

当園の最後を飾る人気施設だよ。立派な唐破風だね。

 

 

「天井たかーい!」サル

 

立派な折り上げ格天井になっているでしょ。東京の銭湯にはこうした宮大工の腕による銭湯がかつては幾つもあったそうだ。

 

 

男湯に富士山がある。角度的にいって右の山は丹沢?

 

「剱岳みたいだにゃ」サル

 

 

「湯船深すぎない?」サルおサル足が届かないにゃ

 

 

ちょっとした体育館並の広さ。好いものはいつまでも残ってほしい。

 

仕立屋

1879年(明治12年) 文京区向丘一丁目

 

 

ポツンと離れて立つ仕立て屋。最後にこれによって帰ろう。

 

「ジミじゃね?」サル好きだよにゃジミジミがひつは

 

 

だんだん少なくなっていく出桁造りの町家。

 

 

かつてはこんな狭い二間で親方と住み込みの丁稚が仕事をしていたんだね。

 

 

気がつけば、総出で雪掻きに精を出していたスタッフの群れはどこかに消えて、スマホをかざす観光客の姿が散見されるばかりになった。名建築の旅。なかなか飽きがこない。

 

「写真の整理が大変なんじゃね」サルパソコン占領するにゃー

 

(おわり)

 

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