「草野心平記念文学館」
往訪日:2019年5月11日
所在地:福島県いわき市小川町高萩字下夕道1-39
開館時間:9時~17時【月曜定休】
入場料:(大人)430円(大学生・高校生)320円(小中学生)160円
■駐車場44台
≪施設自体がひとつの芸術品≫
※いつもの個人的備忘録です。興味のない方はスルーしましょう。
こんばんは。出張続きでお疲れ気味のひつぞうです。二ツ箭山の下山後に向かったのは、いわき出身の詩人草野心平の記念館とその生家でした。
草野心平(1903-1988)。福島県旧・小川村出身の詩人。オノマトペを多用した蛙の詩人、富士山の詩人として知られる。16歳まで過ごした生家は遺族によりいわき市に寄贈され一般公開されている。恥ずかしながら、ここが草野心平の故郷だとは知らなかった。
1998年に故人の業績を顕彰し、後世に伝えるためにいわき市が設立。工夫に富んだ展示施設はディスプレイ産業優秀賞(1999年)を受賞している。唯でさえ難解なイメージの現代詩だが、興味がなくても十分眼で愉しめる施設だった。
展示施設に這入ると、その奥に借景として配された二ツ箭山が眼に飛び込んでくる。
内部は常設展示室と企画展示室のブースに大別され、生涯学習施設などが複合的に組み合わされている。そのため、幼い子供を連れた母親たちの交流の場にもなっているようだ。
「絵本もあるしにゃ」
僕らが学生の頃、国語の教科書に載っていた「秋の夜の会話」と題された詩。
秋の夜。誰と誰が言葉を交わしているのだろう。「もうすぐ土の中だね」という科白から、人間ではないなと気づく。越冬する生き物。それは何なのか。「土のなかはいやだね」と、やがて我が身に降りかかる定めに嘆息する。そこに「痩せたね」と、否が応でも自分たちの境遇に目を向けざるを得ない科白が間髪入れずに飛び出す。
個人的にはぜひ言われてみたい言葉であるが。
それは草野本人を表すものだったのかも知れないし、人間という存在が、すべからく置かれた境遇を表すものだったのかも知れない。
「ふむふむ。まったく判らん」
★ ★ ★
草野心平はアナーキスト、ニヒリストと評される。僕らが授業でその存在を知った頃、まだ現役だった草野は旺盛な詩作と出版活動を続けていた。現代詩と云えば大岡信、吉増剛造、吉岡実などがその頃の中心的存在で、草野は一世代前に当たる。晩年は(上の写真のように)邪気のない、悪戯坊主のような、はにかみを含んだ笑顔が印象的で、酒に酔い痴れては歌を歌う、気の好い爺様と僕の眼には映った。
宇宙船の内部のようなブースには、写真入りでその生涯が紹介されていた。難しい境遇に生をうけた草野は、幼い頃から癇癖の強い、誰にでも噛みつく激しい性格だったらしい。四人の兄弟がいて、詩作に手を染めた兄・民平、弟・天平に触発される形で詩人の道を歩き始める。
「文学一家だったのちにゃ」
でもね。父親の馨氏がちょっと性格破綻者で、正業に就かず、親の財産を食い潰して過ごしたんだ。一部その性格を受け継いでしまった心平だが、近親嫌悪とでもいうのか、反りが合わなかったらしい。
そんなこんだで、旧制磐城中学に進学したものの、あっさり中退。慶應義塾に編入するがやっぱり中退。興味があった中国大陸に渡るため、嶺南大学に留学するんだね。同じ頃、兄弟が相次ぎ病死し、野獣のような外面から想像しがたい、ナイーブな感性に火がつき、猛烈な詩作に没頭するようになる。
確かに、この頃の詩は、破滅的で、実験的で、浪漫派から派生した既成の系譜とは異なるものを模索したことが判る。
これも代表作「ごびらっふの独白」。蛙界の重鎮ごびらっふの蛙語の詩と、その“日本語”訳が二段書きで現れている。このコーナーに立つと、草野自身の朗読が流れてくる。
るてえる びる もれとりり がいく。
ぐう であとびん むはありんく るてえる。
けえる さみんだ げらげれんで。
くろおむ てやあら ろん るるむ かみ う りりうむ。
なみかんた りんり。
(日本語訳)
幸福といふものはたわいなくっていいものだ。
おれはいま土のなかの靄のような幸福に包まれてゐる。
地上の夏の大歓喜の。
夜ひる眠らない馬力のはてに暗闇のなかの世界がくる。
みんな孤独で。
初めて聴く草野の声は深く、力強く、やや鼻に掛かった艶のある音声で、詩とは黙読するものではなく声に出して読むものだと、強く思わされた。詩人自身に読み上げられたそれは、マントラかラテン語のような、抑揚のある言葉となって空に放たれていく。
「なにラテン語って」
「テルマエ・ロマエ」で阿部寛が喋っていた言葉だよ。
ただの出鱈目な五十音の配列に、強烈な意思が芽生える。それが詩なのだろう。
カエルのゲコゲコ鳴く声が足許から微かに聞こえていた。鉄パイプの林は、草野の故郷の竹林を再現したものだ。
蕩尽するばかりで、モノを蒐集する癖がなかった草野が唯一コレクションしていたのが石。自分で拾ったもの以外に、南極やヒマラヤの石などもある。草野に心酔した冒険家たちが寄贈した物だ。デナリに消えた植村直己もその一人。
★ ★ ★
このコーナーは現代美術館さながらのコンセプト・ディスプレイ。
「中に入ったら無理せず1キロ痩せるとか?」
健康器具じゃないよ。
「新しい宗教施設なのち?」
語弊があるけど、ま、精神世界を表したものには違いないね。
「トリエンナーレなのち?」
まあ現代アートと云えばそうだよね。これ。人間の存在の矮小さ、儚さを表しているんじゃないの?
「おサルが知らないと思って、判ったふりしているだけなんじゃね?」
草野が好きだった「Q」の文字。ただQが並んでいるだけの詩があるんだよ。このコーナーでは好きに自分で並べることができる。これはおサルの作品。
「ヒキガエルの卵塊だにゃ」
うまいうまい。
これは草野自身が経営していた居酒屋・火の車の再現コーナー。何にしても貧乏だった草野は、貸本屋やバーなどいろいろな事業に手を染めざるを得なかった。
中原中也や金子光晴らと詩誌「歴程」を始めて、戦後詩のエポックとなった草野は「蛙はもうやめだ」と云いながら、終生蛙の詩を書き続けた。
草野はいう。
“ふるさとの土をふんだ時は気持のよい恰度五月のはじめでした。ふるさとの家は炉が切られ、自在鉤がかけられ、すべては渋く落ちついて禅寺のように静かでした。(略)一人じっとそこに坐り、孤独の静けさと清潔さと、一種の権威すら感じました。”
草野は東京に出て、そこで詩人として活躍し、一時期を除いて、故郷に居を移すことはなかった。だが、心の中にはいつも、この阿武隈山地の南端の、緑と土とせせらぎが成す高潔な世界があったのだろう。
さて、それでは車で三分の場所にある生家を訪れよう。
★ ★ ★
草野心平生家
所在地:福島県いわき市小川町上小川植ノ内6-1
開館時間:9時~16時(月曜定休)
入場料:無料
駐車場:3台
ちょうどボランティアの方たちが芝生を刈っていた。
庭には草野が好んだ樹木が植えられている。
これが故郷を偲んで語った囲炉裏と自在鉤。阿武隈山麓では、昭和の初めまでごく普通の造りだった。
主なき家となり、化粧まで施された床や梁を見ると、僕自身が捨ててしまった故郷の今を想わずにはいられなかった。家を栖として語れるのは凡そ三代。それ以降は、顔も知らない先祖が暮らした歴史のなかの建築物に過ぎなくなる。
大きなクスノキの青い葉が爽やかな五月の風に揺れていた。
このあと再び北上して、とある山に登った。まだまだ残雪の山だった。果たしてどこでしょう。
(つづく)
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