ていは生きていました。
しかし、食事も喉を通らぬほどに気力を失っています。
そこで登場するのが、もう一人の「母上様」のふじです。
御供えの下がりものなら食べるのも供養のうち、おかげで回復の兆しが見えました。
役不足気味だった飯島直子がやっと始動した感があります。

一方、歌麿を失った蔦重は放心状態で、売り込みに来た一九を追い返すほどです。
一九から聞いた源内が生きているとの噂を手がかりに、

蔦重は自ら文を持ってきた喜三二、急な客人がある三浦、試験の準備に忙しい南畝と、懐かしい関係者と再会をしつつ、話を勝手に膨らませながら元気を取り戻していきます。

前回が重苦しかった分、気楽な回にしたいという配慮はあるのでしょう。
「新選組!」でも、山南切腹の「友の死」の次が「寺田屋大騒動」のドタバタでした。
そして、残りの話数からも写楽と跡継ぎの謎解きで静かに幕を引くと思っていたものが、ここから森下佳子が大きく仕掛けてきます。

まずは、蔦重から自立したはずの歌麿の自暴自棄です。
吉原で派手に遊んだ順に描くとの宣言して本屋たちに金を使わせても、歌麿の心はすさむばかりです。
気持ちを金額で表現することのむなしさと醜さは、吉原育ちの歌麿が一番わかっているはずです。
たとえ、それが吉原への恩返しだとしても。

それ以上の想定外は、「七つ星の龍」の原稿に導かれた先にいた、定信、高岳、三浦、鬼平、栗山という呉越同舟にすぎる顔ぶれです。
定信が蔦重に呼びかける「宿怨を越え」「ともに仇を討たぬか」には、「どうする家康」の築山殿を思い出させますが、
驚きはあっても、「まあいいか」と思わせるところもありました。

バラバラのようでも口も利かぬような間柄ではなく、蔦重と縁ある者もいます。
鬼平と栗山は要職ですが、今の定信や高岳は政治的に無力であることもあります。
もとより、本作は天下人を描く話ではありません。
「べらぼう」流の「そうきたか」の仇討ちなら、見せていただきましょう。

というわけで、今回の秀逸は、
放心の蔦重を前に、本気で心配する鶴屋と意外なほど引く手あまたのみの吉でも、
商家の入り婿になり侍髷も改め二本差しもやめた親孝行な瑣吉の身分移動でも、
節約のしすぎで同じように遊んでいても楽しそうに見えない吉原の薄暗さでも、

歌麿に相談することなく作ったこともどうかと思いつつも、それでも蔦重が心得ている歌麿が望むような彫りも刷りも色も柄で仕上げたのに、
また蔦重の屋号が歌麿の名の上に置かれていることに気付いた歌麿が、紙花のように破り散らした「恋心」の美人画でもなく、

たとえ本人の出演がなくとも/実は出演する分岐点も考えたのかもしれないが、
相良凧、秋田での蘭画の普及と紙風船の熱気球上げ、蝦夷脱出伝説と、改めて源内の影響の大きさを強調することで示した、
物語の序盤を悠々と渡り切った安田顕の好演に対する関係者一同からの心からの謝辞。