冒頭、あれほど派手好き、新企画好きだった蔦重が、再印本を口にします。
対する鶴屋の「身上半減は蔦重にも倹約をさせたかったのではないか」が良き解釈で、
発見はしたものの伝えにくい「身上半減」の一つの側面を、鶴屋こと風間俊介の達者さを頼りに思い切り解説させた感があります。
このまま倹約による縮小再生産に甘んじる蔦重ではないものの、
黄表紙は教訓的、狂歌本は格調高くという社会情勢に、飯盛も江戸払いとなり蔦屋には手持ちの戯作者も絵師もいないという最終盤に、
改めて歌麿と京伝との関係を修復しつつ、後の馬琴・北斎の新人を手に入れる回でした。
まずは、有力新人の登場です。
後の馬琴は若気の至りでエラそうというには老け顔で重厚だし、後の北斎は奇人を超えて怪物に近いものがありました。
まずは強く印象付けられればよいというところなのでしょう。
才を見せれば、きっと見え方も変わってくるはずです。
歌麿の説得は大変でした。
きよによって断ち切ったはずの蔦重への思いが再度吹きあがってくるのを避けるべく、自ら蔦重と距離をとっていたようです。
それでも蔦重が追いかけてくるし、しかも昔なじみの調子で話してくるものだから、かえって歌麿は他人行儀な対応になります。
そんな思いを知ってか知らずか、蔦重は一本屋として一絵師の歌麿に、女のタチが伝わる、女らしい一瞬を捕まえられる絵師は歌麿だけと説きます。
なんとか江戸に戻った歌麿ですが、うっかり蔦重が横から肩を抱こうものなら、やはり電撃を受けたようにはねのけてしまいます。
京伝はというとチョロいもので、鶴屋の挑発を前振りに、書画会という名のファンの集いに舞い上がり、
自分が作詞した新内節の『すがほ』の三味線が聞こえてくれば、柱一本でミュージカル界のプリンスらしく歌い切ります。
伴奏が宝塚の元トップスターの三味線なので、なおさらです。
そんなモテたい欲、描きたい欲が不滅の京伝は、気軽に歌麿に「欲」の話をふります。
対する歌麿の「欲なんて、とうに消えたと思ってた」に震えました。
ずっと他人の欲にもてあそばれ、自分の欲は封じ込めてきたのに、それでも欲がもたげる。
これが人の「業」なのでしょうか。
一方、定信は忠籌らが倹約令を批判するとムキになって先鋭化していきますが、あれほど心躍らせていた出版界が退屈になっていくことが寂しいようです。
定信は自分の理屈で自分の心を苦しめています。
そんな定信を見放した忠籌らがすがるのが、おやまあ、よりによって治済ですか。
というわけで、今回の秀逸は、
忠籌らが泣きついたこと以上に気になる治済が持っていた葵小僧の葵の提灯でも、
蔦重に鶴屋が加わったからこそ重みのある京伝に対する「お抱え代返して」でも、
ていの「執念深き」より不可解な次郎兵衛の「天下人の相」が示唆するものでも、
イチモツのネタを思い出させるどぶろっく江口の坊主の「大きいものがいい」でも、
栃木の豪商が自然すぎるU字工事の二人でも、
後ろ姿だしチキショーも言わないコウメ太夫の難波屋でも、
相撲絵、武者絵の流行からの会いに行ける町娘ブームという「女の大首絵」の成功の方程式でもなく、
小道具があればもっと人柄の出る美人画が描けると歌麿が今さら気づいたことでわかる、
ポッペンのない「ポッペンを吹く娘」も含む結果的に美人画の習作になっていた歌麿が毎日大量に描き続けた時のきよは、
けっして小道具を持つことのできない病の床にあったという悲しい現実。