まずは先週の後始末です。
飲み食いもしないほどに傷ついている歌麿に、さっそく登場するのが蔦重の母つよです。
「赤ん坊みたいなもの」とさらりと言うと、しっかり抱きしめ母子関係をやり直します。
そんな「母」が自分のために握ったおにぎりなら、歌麿も口にできるのです。

実は、日本橋に移って唐突に登場したつよに違和感がありました。
駿河屋に育てられた孤児という蔦重の基本設定との接続が綱渡りに思えたからです。
なるほど、ここで歌麿の心を引き戻すためのつよでしたか。
世慣れたつよだけに、栃木宿に同行するのも歌麿のリハビリには心強いことでしょう。

一方、いつもの楽観的な調子の良さで蔦重が押し通した教訓読本のフリをした好色本は、案の定、摘発を受けます。
しかも、定信自ら乗り出しての見分でもいつもの調子で挑発的に反論する蔦重です。
正直、モウ、コンナヤツ、サッサト、ハリツケニシテイイヨ、という心境になります。

また、ていが(今作では定信の指南役の)栗山に直訴するという作劇も巧みで、
ここまで何かあるたびにていが豊富な漢学の知識で理解し対処してきたおかげで、
論語、中庸を繰り出しあう栗山との朱子学対決が、荒唐無稽な「そんなアホな」ではなく痛快な「さすがやなあ」に見せてしまいます。

注目すべきは、礼儀、忠義、孝行を重んずる江戸時代の朱子学的道徳観に基づき、
吉原の女たちをなんとかしてやりたいという蔦重の思いを、ていが「女郎は不遇な孝の者」とまで位置付けたことです。
不道徳な仕事を強いられている吉原の女たちを、ていは救済すべき道徳的存在とします。

ともすれば、社会は不道徳と位置付けたとき、簡単に制度の外に置きます。
背景には男性にありがちな「慈母と娼婦」に分ける二元的女性観もあるのでしょう。
不道徳な好色本を簡単に取り締まるように、商品として女郎を扱います。
ていは、そこにいるのは人間だと問いかけています。

さらに、定信の農村に人を返すべきという正論に、本多が厳しい年貢に娘を売らねばならぬ農村には帰りたがらないと返したことで、ていの指摘は社会構造の問題として立ち上がってきます。
続く「人は正しく生きたいのではなく、楽しく生きたい」は、現在の過疎の問題にも通じます。

かくして、蔦重はどれほどの厳しいのか定かでない「身上半減」にとどまるのですが、奉行にさらなる憎まれ口を叩くのでていに張り倒されるし、
店に戻ったら戻ったでいつもの調子でうそぶくので、鶴屋も「そういうところ」と声を荒らげるのですが、
もうこのあたりは快哉しかありません。

というわけで、今回の秀逸は、
思わぬところで転がっていた歌麿の「ビードロ/ポッピンを吹く女/娘」の原形でも、
時節柄、歌麿がむさぼり食って参画しているのかもしれないおにぎりアクションでも、
それでも、さすがにチト寂しい歌麿の「(蔦重とは)もう関わりないから」でも、

仲間を売った発言でも気の毒としか思えない京伝の「蔦重に書けって(言われた)」でも、
完全にもらい事故でしかない地本問屋行司二人の江戸払いの処罰でも、
「犯科帳」では脚色されているものの、けっこう史実準拠でもある、鬼平の被害女性を慮った葵小僧に対する即刻極刑でも、

決めたのは定信か奉行か、あるいは脚本か演出か、「身上半分」とはいえ畳も暖簾も看板も半分という蔦屋の奇妙な景色でも、
蔦重の命乞いは断っても行司への詫び銀を建て替えた鶴屋の手堅さでもなく、
ていが自分への詫びとして書物問屋の株を望む先を見据えた賢妻ぶり。