鶴屋と蔦重が専属料をみやげに京伝を抱えようとした作劇が巧妙でした。
前回の復習のように蔦重と京伝はあるべき黄表紙について議論を始めますが、
黄表紙そのものが政治権力によって否定されてしまい、二人の思いもすべて力で押し流されてしまうようなイヤな時代です。

政治風刺的な黄表紙の発禁、圧力のかかった武士の戯作者の引退に続き、全ての本屋で新作黄表紙の出版禁止となれば、蔦重が関係者に詫びるのも当然です。
草稿の山を奉行所に届けたのはおそらく史実の外でしょうが、獲得目標として「仲間」という自治権を位置づけたのも面白い視点です。

一方、庶民派の鬼平だからこそ提言し実現したとされる人足寄場を、「田沼病」の治療施設として定信が発案したとしたのはなかなかのアクロバットです。
人足寄場の提案が鬼平と定信と二人だけの場で出たのが辻褄合わせとして上手く、この関係が蔦重からの願いを果たすのにも役立ちました。

そんな鬼平を説得(まあ贈賄ですが)するのに二文字屋を登場させたのも、ヒネリ出してきたなあと思わせるロングパスでした。
鬼平の「さすが俺の金蔵を空にした女だぜ」がすべてを収めてくれましたが、
この荒唐無稽なセリフを違和感なく言えるあたりが、中村隼人の歌舞伎役者ならではの力量なのでしょう。

そして、今回はなにより早すぎるきよの旅立ちです。
錯乱したか聞こえないゆえか、歌麿が背を向けているだけで不安になるきよに、もう他に誰もいないと、きよを見つめ続けることを心に決める歌麿です。
それにしても、歌麿の生い立ち話に声を出して答えるきよの生き霊?の美しいこと。

別れが近いことを悟った歌麿は、弱りゆくきよを描き続けることに執着します。
それだけがきよに伝わる愛の言葉であるからでしょう。
しかし、「(きよの顔が)まだ変わってるから生きてる」は違います。
室内はハエの飛ぶ音が聞こえ、みの吉はたまらず手ぬぐいで鼻をおさえます。

歌麿は、きよが担ぎ出されると残った畳のしみにまで口づけし、唸り声をあげながらやり場のない怒りをぶつけるように蔦重を殴り続けます。
これはたぶんねらっていると思いますが、期せずして、蔦重は冒頭で京伝を殴り、最後に歌麿から殴られることとなりました。

というわけで、今回の秀逸は、
まだ来て10年もたたないのに蔦重が勝手に代表して京伝にすごむ「日本橋」でも、
重政の「春朗」の一言に「北斎の登場か」とどよめくちゃんと予習済のネット世論でも、
ポンポンと手を叩くだけで本当に「お静かに」させてしまう鶴屋の風格でも、

お久しぶりは大人の事情としても地道に頑張っていた西村屋と鱗形屋でも、
蔦重のもとに集まった春章、芝全交、宿屋飯盛らけっして枯渇してない人材でも、
菊園を身請けして、どこへ行ってもモテた時代も終わり、いつまでも「浮雲」ではいられなくなった京伝が自覚させられる大人の責任でも、

上方からはどうにもできない距離のある江戸の本屋と「心学早染草」で接点を持つと、さらりと安い仕入れに転ずる大和田安兵衛の上方流の軽妙自在な商売でもなく、
いつから描き続けたかはわからぬが相当な日数は枕元から離れなかったことがわかる、歌麿の月代からうっすらと伸び始めている髪の毛。