今回は蔦重ピンチかと思いきや定信が大ノリで、さらに弓が引き絞られました。
しかも、定信は自分の理想が絶対的に正しいと思い込んでいるので、
首座とはいえ同僚なのに「老中心得」を申し渡したり、
子作りをしても幼少扱いの家斉に「御心得之箇条」で道を説く大胆さです。

追従する下々の武士はニワカばかりで、論語を空んじても一巻の冒頭だし、
手にする弓は真新しいし、民を脅し威張ることが武士だと勘違いしています。
ここへきて、心の中でツッコミを入れるていの漢学の素養や、
丈右衛門と呼ばれた男を射抜いた鬼平の武芸の練達ぶりがよく効いています。

これではからかったかいがないという蔦重の気持ちはわかるとしても、
売れ行きが今一つだった春町がこじらせてしまうあたりに生真面目さが伺われます。
藩主が定信を評した「志は立派だが、はたしてしかと伝わるものなのか」も、
そのままに受けとめて考え込んでしまう春町です。

かくして、春町の新作は政信の自信満々の政策を下々が勘違いしているさまを
そのまま皮肉るものとなりました。
さすがに、時の権力者を直接扱っては、ていでなくとも危うく感じるところです。
まして、ふざけるのではなく諫めるという春町の考え方は悪い意味で生真面目すぎます。

歌麿の心のリハビリも見ごたえがありました。
まず、蔦重のバディにはなれぬと悟った歌麿が自らパートナーを求めたのが成長です。
もともと生命の陰にある妖が見える歌麿は、かたわらの虫さえ活写できました。
きよを通じて人のぬくもりにも肯定的になれた歌麿は、枕絵さえ自分のものにします。

たとえ、きよに言葉がなくとも、
「顔つきから動きから考えるのが楽しい」と語る歌麿は喜びと自信に満ちています。
所作だけでなんとか伝えようとするきよ、それに全力で立ち向かおうとする歌麿、
そのための藤間爽子でしたか、そのための染谷将太でしたか。

というわけで、今回の秀逸は、
育ちの良い人にありがちな揶揄する時にも丁寧なていの「ふんどしの守さま」でも、
春町の「悦贔屓蝦夷押領(よろこんぶ…)」を評価する藩主の正蔵こと元はこぶ平でも、
雷を起こす妖を描きとめ妖に取り込まれたかのように筆を握ったままの石燕の最期でも、

御三卿の自分に臆せず切り込む定信を「こら、あかんわ」認定した治済の、
政は足軽上がりでもできるが跡継ぎを作れるのは将軍のみという立憲君主制的達観でも、
歌麿への100両の祝儀を取り返すべく「ちゃんと売らねばなりません」と迫るていの
「なんならメガネとろうか」な勢いでもなく、

慎重なてい、不器用な春町はもとより、
適当な三和、気楽な京伝、一度は「どうだろう、まあ」と受け流す喜三二、
軽率なみの吉、察しは良いが急ぎすぎるつよ、大事なところは押さえている次郎兵衛と、
時間をかけて育てた分、自在に動いてくれている感のある蔦重サポーターたち。