映画「大長編 タローマン 万博大爆発」を見てきた。
ためらっていた「国宝」を見たのも、
「オマエ、国宝を見ずにタローマンを見るのか」という自分への問いかけに、
「ちゃんと両方見てるし」と答えるため、というようなところもあった。
もともと、2022年にNHK教育で放映されていた5分10話のミニドラマである。
そもそも、2022年開催の「展覧会 岡本太郎」大阪展のプロモーション企画である。
しかも、「1972年に放映された特撮ドラマ」という体裁をとっているし、
その体裁も解像度の高さを求めるというよりも「お約束」を守る色合いの方が強い。
なので、わざと「雑な」特撮を使い、わざと「いかにもな」人物が登場していた。
ちっとも役に立たない「地球防衛軍(の頭文字でCGB)」も登場する。
妙に甲高い声で話す女性隊員もいるし、子どもたちが同一視する天才少年隊員もいる。
毎回ビルを壊されて「ワシのビルが…」と嘆く社長(鷲野という名だ)もいる。
物語は、毎回、岡本太郎作品ゆかりの「奇獣」の出現に、
ウルトラマンに「若い太陽の塔」のような顔をつけた感じのタローマンが、
岡本太郎ゆかりの技を繰り出したりしながら、でたらめに解決してしまう。
主題歌の「爆発だッ!タローマン」の「ことば」(作詞ではない)も岡本太郎だし、
途中、随所に「岡本太郎もこう言っている」から始まる岡本太郎の言葉が引用される。
その「なんだ、これは」な精神の「でたらめ」な5分間に一部の物好きたちが熱狂した。
私も、その一人だ。
それが映画化された。
105分の上映時間である。
5分番組だからこそ「でたらめ」な展開をキッチュな「お約束」でつなげることで、
「なんだ、これは」と言っているうちに何とかなっていた。
映画だとそうはいかないとしたものだが、これがまあ何とかなっていたのである。
まず、ちゃんと「大きな物語」がある。
大阪万博で賑わう1970年に、2025年からやってきた奇獣が襲う。
CBGとタローマンは2025年の未来社会に向かうのだが、
そこは思いもよらない秩序ある世界だった。
つまり、でたらめな「タローマン」的世界観に秩序ある未来が立ちはだかったのである。
これは強大だが壊しがいがあるし、「行きて帰りし物語」にもピタリとはまる。
なお、秩序ある未来社会とはいえ、岡本太郎作品をベースにデザインされているし、
映画が制作された1975年(という体裁)時点で空想されたねじ曲がった2025年なので、
十分に「なんだ、これは」だし「でたらめ」だ。
そして、ちゃんとテレビ版の世界観を受け継いでいる。
上記をはじめ、ドラマ版に登場した「お約束」はだいたい登場する。
なんなら、鷲野グループはさらに発展しているし、
ビルが破壊されると、子か孫かドラマ版とそっくりの(同じ役者だしな)社長が嘆く。
また、1970年万博の描写では、当時の小ネタを踏まえている。
少年隊員は太陽の塔に座り込んで呼びかけるし(占拠事件というのがあった)、
外国人が珍しいからという理由だけで、
子どもたちは外国パビリオンの人たちにサインを求める(当時、本当に流行っていた)。
こういう細かいリアリティが大きな「でたらめ」を支えているのはSFの鉄則だ。
そんなわけで、「でたらめ」によってタローマンが活躍する物語は、
「でたらめ」が論理の外にあるゆえに、逆に「都合がいい」に近づいたり、
時に生真面目なまでに「でたらめ」を貫いたり、唐突に予定調和に向かったりもする。
そして、そんな「都合の良さ」もまた、「でたらめ」の一つの姿であったりする。
「つながり」など雑にしているところもあるのではないかという疑念もあるのだが、
どんどん進んでいくので破綻は感じさせない。
というか、そんなことはどうでもいいと思わせるほどに濃密だし勢いがある。
そして、その根源には岡本太郎の言葉だけはホンモノであるという大原則がある。
「タローマン」はけっして岡本太郎作品ではないし、
そこで描かれる「でたらめ」が岡本太郎の思想に従っているわけでもない。
それでも、(最近はやりの)監督・脚本その他いろんな仕事も兼ねている藤井亮が、
岡本太郎の作品と言葉から触発された「私の中の岡本太郎」を思いきり開放し、
映画という形に止めたような清々しさがある。
ひょっとすると、ドラマ以上に散りばめられている岡本太郎の言葉の数々を、
あまたある岡本太郎の著書等から拾い集めながら、
この言葉は映画のどこに使えるかとか、この言葉を使うならこんな展開にしたいなどと、
監督の藤井亮がチマチマ一人で検討しているのではないかと思ったら、
なかなかに楽しいではないか。