映画「国宝」を見てきた。
歌舞伎役者の修行をしていないにもかかわらず、
吉沢亮と横浜流星の女形ぶりが素晴らしいとの評判は聞いていたが、
3時間近い上映時間にためらいがあった。
逆に3時間の長さが苦痛になるのではないかという変な勘繰りもあった。
杞憂だった。

以前、テレビで流れていた舞台挨拶で、吉沢亮がカットされたシーンについて問われて、
二人で長い時間をかけて練習し、本番でも10数分踊り続けていた「藤娘」なのに、
映画で使われたのは最初の17秒だけ、と裏話を交えつつ答えていたのが印象的だった。

映画を見終えて気づくことは、
それこそがこの映画の良さであり、贅沢なのさだということだ。
17秒だけの振りを覚えて撮るのなら、「それらしい場面」を作ることにしかならない。
1年以上かけて二人が基礎から学び、10数分の舞踊を完成させることによって初めて、
(使ったのは17秒でも)若手女形が競演する「二人藤娘」が撮れるのだ。
むろん、それだけ時間も手間もお金もかかっている。

新聞小説だった原作はもっと濃密で壮大な群像劇であったと聞く。
脚本をブラッシュアップする過程で、喜久雄を軸とし、
俊介を中心とする喜久雄に関わる人たちに焦点を当てると定まったようだ。
脚本の奥寺佐渡子によれば、ギリギリまで切り詰めるために登場人物も絞り込み、
「原作で好きだった場面やセリフも割愛せざるを得なかった」という。

つまり、積み上げて3時間になったのではない。
もともと濃密だったものからさらに削り出すことで、やっとたどり着いた3時間なのだ。
濃厚になるはずだ。

パンフレットの奥寺佐渡子のインタビューによれば、李相日監督の考え方は
「セリフで説明するのではなく、お芝居の説得力で見せたい」というもので、
(原作で魅力的だった)ナレーションも使わなかったという。
言い換えれば、きちんと映像を作れば説明に時間を割かなくとも伝わるということだ。

たとえば、極道の息子である喜久雄には背中に彫り物が入っている。
部屋子の時も、売れっ子の若手役者になっても、大名跡を継いだ後も、
楽屋で背中まではだけて化粧をするたぴに彫り物が目に入ってしまう。
喜久雄のことを知る役者やスタッフの間では日常の景色でしかないのだが、
見る側には梨園の血を引いていないこと以上の喜久雄の厄介な因縁を意識させる。

あるいは、冒頭の抗争シーンで、
養父になる渡辺謙が少年喜久雄をしっかりと抱きかかえて離さない姿が映るだけで、
喜久雄の才能や運命、養父の執着心などが見えてくる。
当代一の女形である田中泯に至っては、
ただ楽屋に座っているだけで重み、深み、凄みが伝わってくる。
そっと言葉がけをしたり、ゆったりと舞う場面ではなおさらだ。

歌舞伎の芝居や舞踊の出来について語る力はないが、
関西出身ではない役者たちが大阪や京都のことばを自然に語っている姿だけでも、
この映画が丁寧に注意深く撮られ、高い完成度に至っていることがうかがわれる。
また、スッポンからせり上がる視点など、舞台中継とは一味違うカメラも独特だった。

歌舞伎指導の中村鴈治郎いわく、
喜久雄の吉沢亮は要領がよく、俊介の横浜流星は真摯に向き合うストイックさがあった、
横浜流星は踊りの形の吸収が早く、女形の発声や芝居では吉沢亮が先行していたという。
こうした二人の個性の違いも、良い形で映画に反映されている。

喜久雄の養父にして俊介の実父の花井半二郎役は、
オファーする前から渡辺謙がやるんでしょと監督は周辺から言われていたらしい。
それほどのはまり役だった。
半二郎の妻を演じた寺島しのぶは梨園に生まれた者ならではの厚みがあったが、
本当に音羽屋の役者の母になった/母として戻ってきたことを思うと、
どんな思いで演じていたのだろうとも思った(何とも思ってないかもしれないが)。

喜久雄の少年時代からの恋人の高畑充希はもう少し見たかったようにも思うが、
この映画では吉沢亮と横浜流星を結ぶ線の方が複雑で太いからやむをえない。
喜久雄が京都で出会った舞妓の見上愛も、出番は少ないが手堅い。
記者役の瀧内久美はさらに短い出番だが大事な役を務めた。
と、ここで気づくのは、三人とも「光る君へ」チームだ。

また、舞台でも楽屋でも稽古場でもずっと下働きだけをしていて、
それでもずっと花井家に居続け(少しずつ老けていっ)た芹澤興人が妙に気になった。
杉村太蔵みたいな「松竹」(じゃない)社員は誰と思ったら三浦貴大だった(同意見多数)。
「繕い裁つ人」で自分が認知したのが10年前だものな。
永瀬正敏の大親分もなかなか威厳と迫力だった。そういう格だし、そういう年齢だ。
逆に、少ない出番だが個性の強さが光った宮澤エマと嶋田久作は儲けたか。

それと、ボンタンアメは効く。
本当に効く。