こちらが飯盛山です
道の両脇にお土産物屋さん的なお店が幾つか並んでいて
その先に長~い石段が見えます
実は7月の終わり頃から右膝の調子が悪く、正座が全く出来ない状態の私。
歩く時もややびっこ気味なので「どうしよう」と思っていたところ
右手に”飯盛山動く坂道”というありがたい文明の利器(笑)がありました
500円(2人分)払って利用する事に
ほんのちょっとなんですけれど。
足が悪い人にはありがたいです。
ただ、上りだけなんですね
残り45段の石段を上り、山頂へ
山頂は小さな広場のようになっています。
中央に案内の立て札がありました。
まずはお墓参りからです
向こう側に小さく並んで見えるのが白虎隊19士のお墓です。
お供えする為のお線香が購入出来る様に置いてあった為
小銭を入れ、火付け用の炭で火をつけてから持参しました。
「どうぞ安らかにお眠り下さい」
この立派な記念碑はローマから贈られたものだそう
イタリアのムッソリーニが白虎隊のエピソードを知って感動し、ローマ市民の名のもとに送ってよこしたそうです。
そしてこの石柱はなんとポンペイ遺跡から発掘された石柱らしいです。
何故そんなものを。ビックリです☆
自刃の地へと向かいます。
階段を下る感じです。
途中、ふと見て「おや?」と思った碑がありました。
岐阜の郡上藩?
なんでこの場所で岐阜?と思いました
「凌霜隊之碑」とあります。
後で調べてみると、郡上藩から分かれた「凌霜隊(りょうそうたい)」という、幕府側に立って白虎隊と共に戦った45名ほどの部隊があったそうなのです。
会津若松城で1ヶ月もの籠城戦をし、降伏した後が悲惨だったそうです。
故郷に帰っても罪人扱いで牢屋に入れられ、粗悪な環境で病にかかる者もいたとか。
これでは凌霜隊があまりにも不憫だ、という声から僧侶達が藩に直訴、身柄を寺に移された後、自宅に戻れたのは会津落城からちょうど1年後の事だったそうです。
藩の為にと行動し、戦って来た彼らに、あまりにも酷い仕打ちです。
白虎隊はあまりにも有名ですが、凌霜隊という岐阜の隊士も一緒に戦ったという事を殆どの人は知らないのでは?
・・・話を戻します。
「白虎隊士自刃の地」は更に階段を下った先の見晴らしの良い場所にありました。
この階段を下り切った先の左手です。
「白虎隊士自刃之跡」とあります。
「白虎隊士石像がのぞんでいる方向が鶴ヶ城です。」
鶴ヶ城はと見渡してみましたが今一つ場所がわからず☆
どうやらお城を確認するには双眼鏡が必要な様です。
白虎隊士はこの場所から城下町が燃える様子を見て死を選んだそう。
今でいうなら16、17の高校生ですよ。
遊び盛りじゃないですか、可哀そうに。
この自刃の地の近くで、ひときわ目立っていたのが・・・







