私の部屋には本がいっぱいあります。最近は紙媒体でない本が存在するので、たくさんの本に囲まれるのは、古い人間である証拠かもしれません。もちろん、あくまでも結果的に結構な量になってしまったのであって、本を集めるために生きてきたわけではありません。様々な理由から、読まなくてはならない本があり、自分の家にライブラリーが出来てしまったのです。なぜ本を読んだのかといえば、自分の知識が足りないことを自覚していたからです。

  例えば、私が教えている神学校の授業で、ある学生が「なぜ人は化粧をするのか?」というテーマでリサーチをしてレポートを書くとします。私自身は、今までの個人的な研究から、「化粧」の文化人類学的、社会学的考察についてある程度の想像はできますが、その分野の専門家ではありません。ところが、世間には、それを専門にして研究している人たちが存在し、当然、本や論文に書いています。すると、私が自分の生徒が書くレポートを評価しようとすると、それらのエキスパートの主張していることを勉強しておかなければ、しっかりとした評価をして、その学生を助けることはできません。この世界のことは、自然であろうが、技術であろうが、文化であろうが、社会であろうが、経済であろうが、その分野の専門家が存在しますので、その学生が読んでおくべきその分野の重要だと思われる先行研究を私も読むのです。

  しかし、この世界を超えた世界、死後の世界や神の世界についてはどうでしょうか。その世界のことを、人間はただ想像することしかできません。ですから、人間の想像の産物である宗教は、表面的には違っているように見えても、共通した構造でわりと簡単に整理できてしまうのです。

  ところが、ナザレのイエスは、十字架で死んで葬られ、三日目に死者の中から復活しました。弟子たちは、イエスが十字架にかかる前にそのようにあらかじめ話していたのに、自分たちはそれを信じなかったと正直に書いています。自分たちの先生が十字架で処刑されるなんて、彼らにしてみれば、ありえないことだったのです。ですから、単にそれを信じないだけではなく、そんなことがあろうはずがないと自分たちは言っていたと書いているのです。つまり、イエスの十字架の死と復活は、彼らの想像を超えた世界だったのです。

  イエスを十字架に付けた人たちは、それでも、弟子たちがイエスは死者の中からよみがえったと言って騒ぐといけないから(もっとも、弟子たちの方が信じていなかったので、そういうことはないのですが)と、イエスの墓にわざわざ番兵をつけました。そして、彼らは、「イエスの墓が空っぽなのは、番兵たちが眠っている間に弟子たちが遺体を盗んだからだ。」と言い始めたのです。ところが、もし番兵が眠っていたのなら、どうやって弟子が盗んだのか分かったのでしょうか?誰が見たのでしょうか?これこそが、人間の想像の産物でしょう。それにしても、こんなうわさを流さなければならなかったということが、本当にイエスの墓は空っぽだった確かな証拠なのですから、全く間の抜けた話ではありませんか。

  人間の知的な営みはとても大切だし、他の人の研究から教えられることはとても楽しいことです。また、自分の想像力を働かせて将来像を構築していくこともまた、ワクワクすることです。でも、たとえ自分の固定観念を超えた想像を絶することであっても、事実を事実としてまっすぐに受け止めるとき、私たちは奇跡に対して心が開かれ、それを期待し、ついには、私たちの人生の全てが実は奇跡でできていることを悟るのです。

 

  そして、その時、私たちは、生かされていることの素晴らしさを知り、言い尽くせない感謝にあふれるのです!そのとき、私たちの心は、働くことを喜び、どんなに困難な状況でも、奇跡を期待してベストを尽くすのです。