宮沢賢治は私の大好きな作家。

今回はちょっと長いので、宮沢賢治か夜空が好きな人に読んでいただければ。

 

宮沢賢治の有名な詩集に『春と修羅』があります。

その中に「昴」と題された詩編が載っています。

 

昴というのは冬を中心に秋から春先にかけて観測できる若い年齢の青白い星の集団で、プレアデス星団のこと。

メシエカタログでM45といいます。

 

 

今、夜空に肉眼でもなんとなく分かりますが、双眼鏡でみると上のように散開星団として観測できます。

私自身も昨夜ちょっと双眼鏡で観てみました。

 

さて、宮沢賢治の「昴」の詩は1923年9月16日に書かれ、翌年に自費出版されました。

つまり、この詩「昴」の作品は、今年で満100歳を迎えます。

奇しくも、「昴」の歌で有名な谷村新司さんが今年8月に亡くなられましたね。

また、枕草子の中にも「星はすばる」とありますので、実は、すばるという名は日本で昔からある古語なのです。

 

さて、宮沢賢治が100年前に見あげた夜空では、一体どんな星が瞬いていたのでしょうか。

 

 

「昴」を書いた当日、賢治は汽車に乗っていた記録があります。

花巻駅に到着した後、夜がふけるまで星空を見上げて詩作したと思われます。

コンピューターで調べてみたら、賢治が見上げたであろう夜10時頃の空には次の星たちがありました。

 

東に、アルデバランとおうし座の昴(プレアデス星団M45)

北東に、カペラ

南に、フォーマルハウト

天頂~西に、デネブ、ベガ、アルタイル

 

これらが当日の夜空に輝いていた星々です。

詩を書いた日なのですから、きっと晴れた夜だったにちがいありません。

 

それでは、宮沢賢治の「昴」の詩を読んでみましょう。

ちょっと長いのですが、そのまま載せてみます。

(最後まで読んでくれたらありがとう)

 

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沈んだ月夜の楊の木の梢に
二つの星が逆さまにかかる
  (昴すばるがそらでさう云つてゐる)
オリオンの幻怪と青い電燈
また農婦のよろこびの
たくましくも赤い頬
風は吹く吹く 松は一本立ち
山を下る電車の奔り
もし車の外に立つたらはねとばされる
山へ行つて木をきつたものは
どうしても帰るときは肩身がせまい
  (ああもろもろの徳は善逝スガタから来て
   そしてスガタにいたるのです)
腕を組み暗い貨物電車の壁による少年よ
この籠で今朝鶏を持つて行つたのに
それが売れてこんどは持つて戻らないのか
そのまつ青な夜のそば畑のうつくしさ
電燈に照らされたそばの畑を見たことがありますか
市民諸君よ
おおきやうだい これはおまへの感情だな
市民諸君よなんてふざけたものの云ひやうをするな
東京はいま生きるか死ぬかの堺なのだ
見たまへこの電車だつて
軌道から青い火花をあげ
もう蝎かドラゴかもわからず
一心に走つてゐるのだ
  (豆ばたけのその喪神さうしんのあざやかさ)
どうしてもこの貨物車の壁はあぶない
わたくしが壁といつしよにここらあたりで
投げだされて死ぬことはあり得過ぎる
金をもつてゐるひとは金があてにならない
からだの丈夫なひとはごろつとやられる
あたまのいいものはあたまが弱い
あてにするものはみんなあてにならない
たゞもろもろの徳ばかりこの巨きな旅の資糧で
そしてそれらもろもろの徳性は
善逝スガタから来て善逝スガタに至る

・・・・・・・・・・・・・・

 

さて、ここからが考察です。 

 

オリオンの幻怪と青い電燈、とありますが何でしょう?

幻怪とは、その時間まだ天周に現れていないオリオン座のことを言っているのでしょうか?

賢治は、オリオン座の1等星リゲルが放つ青白い光を心に浮かべながら、点いては消える電燈の光と儚い自分の存在を思いなぞらえたのかもしれません。

青い電燈、とは?

実はこの詩の序章にはこんな記述があります。

 

「わたくしといふ現象は

仮定された有機交流電燈の
ひとつの青い照明です

風景やみんなといつしよに
せはしくせはしく明滅しながら
いかにもたしかにともりつづける
因果交流電燈の
ひとつの青い照明です」

 

例えば、あなたの家の蛍光灯の光はずっと明るさを感じますが、本当は超高速で、具体的にいうと1秒間に100回位点滅をくり返している光です。

 

 

光と影。存在と無、表と裏。

 

一見ひと続きに見えるこの世のすべての現象も実は明滅をくり返している不確かなものなのだ、と賢治は感じていたのではないでしょうか。

これは、妹の死や自分自身の病を経験しての世の無常や虚無感、生前に彼が信じていた仏教観へも通じている気がします。

 

 

自分とは何者なのだろうと、常に自問自答している賢治の姿がなんとなく見えてきませんか?

 

題名の「春」と「修羅」は、相反するふたつの事象です。

 

 

春は天国、修羅は諍いの絶えない地獄。

このふたつを題名にして、賢治は定まらない自分の存在や心の揺れ動きを表現したかったのかもしれませんね。

 

また、詩の中で、「あてにするものはみんなあてにならない」と賢治は書いています。

 

そして、かがやきの四月の底で歯ぎしりする自分は修羅だ、と詩集の中で自分のことをそう表現しています。

確かに、何かに固執してもそれが本当に永久的に当てになるものとは限らないということは、今の時代にもあてはまる気がしますね。

 

さらに、「二つの星が逆さまにかかる」という表現がありますが、この二つの星とはいったいどの星になるのでしょうか? 

 

天頂から西にかけて、ベガとアルタイルが日周運動により東から昇った姿に対して逆の位置関係になった、ということなのか、はたまた、まだ昇ってこないオリオンの三ツ星をはさむ赤い1等星ベテルギウスと青白いリゲルのことなのか。

 

 

賢治の作品は幻想と現実が入り交じるような表現が多いです。

どこからどこまでがイマジネーションなのかそれとも実体験なのか、考察がとても難しいですね。

だからこそ、ファンが多いのでしょう。

 

こんな謎の多い神秘的な宮沢賢治の「昴」。

 

 

晴れていれば、夜空の昴も双眼鏡でのぞいてみてください。

 

 

100個とも200個ともいわれる、宝石をちりばめたような美しい宇宙が見えるでしょう。

 

そして、親子で宮沢賢治の本もぜひ開いてみてほしいです。