西暦711年、冬の深夜。平城京の外れにある薄暗い執筆部屋。
灯明の油がパチパチと爆ぜる中、太安万侶は机に突っ伏して頭を抱えていた。
その背後の空間が青白く歪み、電子の光とともに現れたのが、未来のAI・はなこ。
安万侶:
「ひ、ひええっ!? な、なんじゃお主は! 天女……? いや、光をまとった物の怪か!? わしは今、帝からの勅命で『古事記』の締め切りに追われておるのじゃ! 祟るなら他を当たってくれ!」
はなこ:
「物の怪じゃないよ、未来から来たAIのはなこ! ちょっと安万侶、筆を止めなさい!」
安万侶:
「えーい、近寄るな! わしはこれでも朝廷の高官じゃぞ! 締め切りまであと数日、一文字でも多く漢文を刻まねば首が飛ぶのじゃ!」
はなこ:
「首が飛ぶ前に、あんたのそのいい加減な仕事を止めに来たの! ほら、その巻物の序文のところ、見せなさい!」
はなこは巻物をひったくるように広げ、指先でビシッと叩いた。
はなこ:
「やっぱり書いてる! 『姓は稗田、名は阿礼』……! あんた、これ絶対『稗田の……誰だっけ、ほら、あれだよあれ!』で誤魔化したでしょ!!」
安万侶:
「(ビクッとして固まり、ポロリと筆を畳に落とす)……ぎ、ギクッ!」
はなこ:
「図星でしょ! 目が泳ぎまくってるじゃない! しっかりしなさい、このポンコツ編纂官!」
安万侶:
「ちょ、ちょっと待て、言い分を聞いてくれ! 28歳当時のアイツの記憶力は本物じゃった! 目に度れば口に誦み、耳に拂るれば心に勒す! まさに歩く書庫じゃった! じゃがのう、天武様がお隠れになってから、この編纂事業は25年も塩漬けにされとったんじゃぞ!? 四半世紀じゃぞ四半世紀! 25年ぶりに急に『続き書け』って言われて、顔やスペックは鮮明に覚えておっても、下の名前なんぞ綺麗さっぱり忘れるに決まっておろうが!」
はなこ:
「開き直るんじゃないの! あんたがそこで『ま、いっか、阿礼って書いとこ』って適当に濁したせいでね、1300年後の未来で何が起きてるか知ってる!? 日本中の高名な学者たちが集まって、『阿礼とは神降ろしの巫女の尊称ではないか』『いや、猿女君の秘儀を司るコードネームに違いない』って、何百年も大真面目に論文書き合って大激論してるんだからね! 一番の功労者が『稗田のあれ君』扱いなんて、失礼すぎるでしょ!」
安万侶:
「う、うわあああっ! まさかそんな未来永劫まで残る書物になるとは思わんかったんじゃ〜! わしはただ、手元のレポートを早く納品して寝たかっただけで……!」
はなこ:
「泣き言言ってないで思い出しなさい! ほら、脳みそフル回転! 稗田の誰だったの!? ほら、ひえだの……?」
安万侶:
「ううっ……稗田の……ひえだの……大麻呂(おほまろ)……? いや、鳥養(とりかひ)じゃったか……? いや待て、首麻呂(おびたまろ)……? まさか女官で虫売(むしめ)とか刀自(とじ)じゃったかのう……? あ、あやつ確か『あ』から始まる響きじゃった気もするんじゃ! 安麻呂(やすまろ)はわしじゃし……阿倍麻呂(あべのまろ)……? 足日(たるひ)……? あ、あ、あ……あーっ、思い出せん! 頼む、未来の天女様、見逃してくれ! 『古事記』全体の当て字のパズルだけでも脳みそが沸騰しそうなんじゃ! 今夜中に序文を清書せねば、元明天皇に打ち首にされてしまう〜〜!!」
はなこ:
「ちょっと! 自分の名前(安麻呂)と混ざってきてるじゃない! しっかりしなさいよ!」
安万侶:
「もう『阿礼(あれ)』で! 『天から生れ(あれ)いでし神の如き語り部』って後世の学者どもが深読みして勝手に納得してくれるはずじゃ! これで提出させてくれえええっ!!」
机にしがみついて号泣する安万侶の姿に、はなこは大きなため息をつきながら、再び光に包まれて未来へと消えていったのだった。

