大敬先生のワンデイ・メッセージを紹介しています。
ぜひ、公式ブログも読んでみてください、きっと何かの気づきがあると思います。

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立花大敬青空ひろば

 

(前日の続き)

(解説)百丈の「飛んでいってしまいました」という解答が悪いわけじゃないのです。いのちは刻々流れて行き、決して留まることはないという、『いのちの流動性』については、百丈は分かっているのです。

しかし、百丈はまだ『いのちの不動性』については盲目であったのです。だから、馬祖はそのことを教えようとしました。

 

いのちを「転がるボールの例え」で説明してみましょう。

一つのボールが床の上を転がって行きます。このボールがあなたや私の『いのちの本体』の例えです。

このボールは絶えず前進して、決して留まることがありません。これが『いのちの流動性』の例えです。

このいのちのボールは常に床と一点だけで接しています。そして、この床との接点は固定していなくて、次々、変わってゆきます。

この床との接点が、私たちが体験する『今・ココ』です。

さて、その接点から床に垂直に直線を引くと、その線は、必ず球の中心を通ります。この球の中心は『いのちの意識の座』を例えています。私たちの『意識の中心』は常に、『今・ココ』の上にあって、その位置から外れず、動きません。いのちがいかに流れ流れても、いかに「飛んでいって」しまっても、意識の座は、刻々の『今・ココ』の上で不動なのです(「飛び去るもんか」)。これが『いのちの不動性』です。

(次の日に続く)