1400年前に聖徳太子が残した「和をもって尊しと為す」。

聖徳太子がその時代に何を見て、何を思い、この言葉を後世に残したのか?

いまとなっては推測するしかないが、その聖徳太子の思いは多く人に受け継がれ、この言葉を「座右の銘」にする人も多い。

しかし、残念ながら現代にこの思いが実現されているのかと見たら実現されていないのではないだろうか?

それがなぜなのか?

それを明確に解き明かし、整理整頓した人がいる。

それがNoh Jesu氏だ。

いままで出来なかった理由に和にも段階があり、これをすべて統合しないとできないという。

その段階とは、
 ・相対的な和
 ・絶対的な和
 ・究極的な和
である。

詳細は、別の機会に譲るが、大まかに述べると相対的な和とは、ひとり一人が違うように相対的な和のこと。

相対的なので人の数だけ存在することになり、これだけでは、統合することが出来ない。


そして、絶対的な和とは、一つしかないこと。

二つあってしまったら絶対(ひとつ)にはならない。

ありていに言えば、過去の偉人たちが語ってきた世界である悟りだ。

ただ、ここだけにとどまってしまってもいまの世界が統合できているのかといえば、出来ていない。

これだけでは不十分なのである。

お釈迦様を代表とする偉人は、いたとしても2500年前に悟ったことを現代でも解き明かせていないのであれば、それを進歩ということができるだろうか?

上記、2つでは足りないものを補うのが究極な和である。

その究極な和のことは、イースト・プレス社から発売された心感覚(シンかんかく)に書かれているのでぜひ、手に取って読んでいただけると幸いである。