上毛新聞社から出版された手島仁さんの新刊『石坂荘作と顔欽賢ー台湾人も日本人も平等にー』(著・手島仁)をご恵贈いただきました。


作者の手島仁さんは、群馬県前橋市に生まれ、群馬地域学研究所の代表理事を務め、群馬の地域学を提唱し、『群馬学とは』や『羽鳥重郎・羽鳥又男読本』、『手島仁の「群馬学講座」ー人物100話ー』など、数多くの著作をお持ちです。

その手島仁さんが今回取り上げたのが高崎の教育者である“石坂荘作”と私の祖父の“顔欽賢”の交流秘話です。

 

 



明治3年、群馬県吾妻郡原町(現・東吾妻町)に生まれた石坂荘作は、明治32年、基隆に居を構え、「石坂商店」を開業し、亡くなる1940年まで、基隆と深く関わってきた人物です。

基隆への最大の貢献は、図書館の「石坂文庫」と夜学校の「基隆夜学会」、女子の職業学校の「基隆技芸女学校」を創設したことが挙げられます。

顔欽賢は、台湾人であった私の父の父——つまり、私の祖父であり、基隆に住む台湾の鉱業王と呼ばれた一族の二代目当主でした。

石坂荘作は、私の曽祖父である顔雲年や、その弟の顔国年と親交が深く、夜学校への寄付を顔家が行うなど、理念も一致していたそうです。

終戦後、顔欽賢は基隆夜学会を引き継ぎ、何度かの名称変更を経て、今日の「私立光隆高級家事商業職業学校」となっています。一時、私の父も学校の理事長になったこともあるので、なんとも感慨深いことだと思いました。

台湾で活躍された上州人は、石坂荘作の他にも、ツツガムシ病を発見した医師の羽鳥重郎や台南市長を努めた羽鳥又男、台湾紅茶の父の新井耕吉郎、教師の中島長吉などがおり、台湾との縁の深さを感じます。



 


ちなみに、顔欽賢は高崎中学を卒業しました。
高崎中学を内地留学先に選んだ理由として、石坂荘作の勧めがあったことも本書で触れられており、私の知らない家族の歴史がまたひとつ明らかになり、手島仁さんに感謝しております。

 

台湾と日本を結ぶひとつの物語として、多くの方に読んでいただきたいです。

 

 

『石坂荘作と顔欽賢ー台湾人も日本人も平等にー』(著・手島仁)