近くの小さな公園にある大きな桜の木の葉の大部分が落ち葉となり、そろそろ東京でも紅葉が楽しめる季節となってきました。

先日、朝日新聞中文網にて中国語で掲載されましたコラムの日本文です。
石川県中能登町と台湾•基隆のとても不思議な縁を是非皆さんに知って頂けたらと思います。


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 私は「一青妙」という。姓が一青で、名が妙だ。一青という姓は母の姓であり、日本全国でも10人ほどしかいない。この珍しい姓のおかげで、物心ついたときから、嫌なこと、嬉しいことを含め、いろいろな体験をした。
 普通、最初から正確に読まれた試しがない。たいてい「いちあお」や「ひとあお」と読まれてしまう。私の方で「ひとと」と言い直しても、きちんと聞き取ってもらえず、「しとと」「いとと」になったりする。台湾と日本のハーフだと言えば「台湾の名前だから珍しいのね」などと言われたりもする。
 ただ、利点もある。一回会った相手にしっかり覚えていてもらえることだ。
 最近の台湾では「一」で名前が「青妙」だと勘違いされることが多い。「一小姐」と呼ばれてしまうと、もう苦笑いするしかない。
 日本人からも台湾人からも珍しく思われる「一青」というこの姓のルーツは、石川県鹿島郡中能登町にある。ここに「一青」という名前の小さな集落があり、わたしの先祖はこの町の出身なのである。
 中能登町は農業のほか、繊維産業が大きく発展した歴史をもち、細やかな絣模様が特徴の能登上布が特産品となっている。また、近くには、和倉温泉という120年以上の歴史を持つ温泉町がある。ここは「日本一のおもてなし」と評価されている有名な温泉旅館「加賀屋」があることでも有名だ。台湾人にも人気で、台湾から大勢の観光客が宿泊に来ており、台湾の北投温泉にも進出している。
 自分のルーツを探りたい、という思いは、誰にでもあるものだ。子供の頃、母親に一度だけ連れて来られたことがあった。実は母親も中能登町で暮らしたことはなかった。曾祖父の代から、もう東京に出てきていたからだ。
 今年春に開通して以来、大人気の北陸新幹線で東京から金沢へと向かい、七尾線に乗り換え、良川駅に到着。そこから車で一青を目指した。一青と書かれた道路標識やバス停を見つけると、とても興奮した。同じ一青姓の人はいないか探してみたが、残念ながらもうこの地域には一人いないのだという。墓地に行くと、「一青」と書かれた墓石が残っていた。直接の親戚ではないが、はるか遠い昔のご先祖だと思い、とりあえず両手を合わせた。
 中能登町は一青という姓のルーツがあるだけでなく、実は台湾との縁も深い。今から22年前の1993年、中能登中学と台湾•基隆市の成功国民中学校が国際交流を始めている。いまでも毎年の夏休みに、学生たちが中能登町と基隆市に交互に訪れ、交流を深めている。
 中能登町と基隆が結びついた背景には、一人の台湾人の歯科医師がいた。かつて中能登町で初めての台湾人歯科医師として勤務している周振才という人がいて、その人は基隆出身だった。彼の協力があって、基隆市と中能登町の学生交流が始まったというのだった。
 周さんは1947年、3代続く歯科医の家の3男として生まれた。台北医学院(現•台北医科大学)の歯学部を卒業し、台北で開業医として働いていた。
 先に日本の大学に留学し、日本で歯科医になっていた実兄を頼り、妻と子どもが日本に遊びにいったのをきっかけに、一家で日本に恋してしまったのだ。
 30歳を過ぎての日本語学習は困難の連続だったが、寝ずの猛勉強で、一発で歯科医師国家試験に通り、1982年、晴れて日本で歯科医師として働くことが決まったのだった。就職先は岐阜病院、岐阜養老歯科診療所、能登島町歯科診療所と三カ所の候補があったが、基隆と同じ海がある能登島を迷わず選んだ。
 小さい町に突然現れた初めての歯科医。それも外国人。周さんのことはたちまち話題となり、台湾なまりの日本語先生は人気者で、毎日食べきれないほどの新鮮な魚を届けてくれる町民がいたと言う。
「星が本当にきれいで、空気もおいしい」
 町の人々と交流を続けること約9年、骨を埋めるつもりで土地まで購入した矢先、基隆で開業している実父が倒れ、継ぐために台湾へ戻ることを決意した。
 基隆に戻った翌年、かつて中能登町の友人より、鹿島中学(現•中能登中学)と基隆の中学校の交流を提案され、周さんの奥さんの中学時代の担任先生が当時の校長先生であった成功中学との交流が始まったという。
 基隆と言えば、台湾人である顔家出身の私の父親の故郷である。その基隆が、母の祖先がいた中能登町とつながっている。そして、私と同じ歯科医の方が関わっていた。こうした事実を知ったとき、ただの偶然というよりも、なにか運命のようなものを感じた。
 今回の訪問では、林右昌・基隆市長と周さんに会うことができた。就任したばかりの林市長はわたしよりも若く、これからの基隆市をどのように国際化し、観光地として魅力的な都市にするかを熱っぽく語ってくれた。
 かつては台湾第一の港町として栄えた基隆だが、その地位を高雄に譲り渡したあとの今は、かなり寂しくなっている。宮崎駿の映画「千と千尋の神隠し」の舞台と言われている九份へは観光客が殺到しているが、近くにある基隆にはなかなか立ち寄ってもらえず、観光地としての魅力の周知が大きな課題になっている。
 歴史的に見れば、いつの時代においても、基隆は海運の要の都市としての役割を担ってきた。かつてスペイン人が最初に上陸した場所であり、鄭成功がオランダ人を駆逐した後、拠点とした場所でもある。日本統治時代は、日本に一番近い立地ということから、内台航路として頻繁に船が行き来し、日本内地の貿易港として繁栄した。
「港にいつも大きな船が何艘も泊まっていた」
「顏さんの家の庭でいつも魚釣りをして遊んでいた」
「引き揚げ船に乗る前に、岸壁から見下ろしたときの大きな波しぶきが怖かった」
 終戦後には多くの日本人がこの港から日本に引き揚げて行き、日本人にとって特に思い出深い港として記憶に残っている。戦前基隆に生まれ育ち、戦後日本に引き揚げた日本人たちが「基隆会」と称して、いまでも年に一回東京で集まっており、私も何年か前から参加している。逆に私の父のように戦前日本で学んでいた人たちは、日本から船に乗って基隆に戻ってきている。今年の基隆会に集まった人数は46人で平均年齢は80歳を超える。戦後70年経ったいまでも、15年近く暮らして来た基隆の風景は鮮明に思い出せると、「基隆市歌」まで歌い上げ、さまざまなことを教えてくれた。
 そんな基隆は、知れば知るほど、実はとても遊びがいのある町だ。今年、基隆駅は鳥かごをイメージとした海を一望できるガラス張りの建物にリニューアルされ、モダンな駅舎へと変貌している。基隆廟口夜市の屋台の料理は台北より美味しいと定評があり、平日でも大変なにぎわいを見せている。160年の歴史を持ち、規模で台湾一の基隆中元祭は毎年9月に開催され、台湾観光局の台湾十二大年中行事の一つにも選ばれている。今年、私も出席したのだが、ばかばかしいくらいに延々と続くパレードに驚いた。日本の山車に似たもので、各主催団体が思い思いの形で、神様に捧げるための何かを作り練り歩く。アニメのキャラクターや三国志をテーマとしたもの、大きな牛にまたがる農夫、マーチングバンド、光GENJIのようなローラースケート隊。全く関連性のないものが次から次へと目の前に現れ、見ているだけで楽しくなってくる。とにかく昼から夜11時すぎまでの長丁場だから、その合間に夜市で美味しいものを買っては、食べながら眺めていた。
 世界各国よりパフォーマンス団体も招待され、他の都市ではあまりみかけない英語の司会進行もあり、国際都市という印象を受ける。中元祭のにぎわいは、かつての基隆の活気が戻ってきたようだ、と地元の人々は言っていた。
 ちなみに、基隆の中心にある成功国民中学校と道一本隔てた場所に、私の父の一族の先祖代々を祭る祠(祠堂)がある。毎日祠の外壁を眺めている校長先生と中元祭で会ったが、その祠の後代が私だと知って驚いていた。
 台北にも近く、歴史も文化もある基隆は、2016年に開港130周年を迎える。中能登の学生たちも基隆を訪れる計画だという。さらに中能登と基隆の絆が深くなり、日台の交流が進むことを願いたい。そして、私も周さんと同じように、二つの土地をつなぐ人間の一人として、ささやかでも、お役に立てれば嬉しいと思っている。