高校野球archive

 横浜打撃投手の石田大也(いしだ・ともや、本名・石田文樹=いしだ・ふみき)さんが15日午前1時40分、直腸がんのため横浜市内の病院で亡くなった。41歳だった。取手二高時代の1984年、夏の甲子園決勝でPL学園高2年の桑田真澄(元パイレーツ)、清原和博(オリックス)の「KKコンビ」を破り、日本一に輝いた“甲子園のヒーロー”の早すぎる死に、恩師は悲しみにくれた。

 「具合が悪いとは聞いていたが、こんなに早いとは思わなかったので、悔しい思いです。今日は試合ですが、まったく気分が乗りません。今日、朝、起きるのも辛かったです」

 恩師の木内幸男常総学院監督は16日午前、茨城県予選3回戦に臨む土浦市営球場で、教え子の早世を悼んだ。

 石田さんとは年に1回、4月3日に取手二高OBのゴルフ会があり、そこで顔合わせてきたが、今年は天候の都合で中止になり会えなかった。

 「体調が悪いという話を聞き、1カ月ほど前に見舞いに行く予定でしたが、急用で行けなくなってしまい、見舞いの品だけ届けました。すると翌日、電話があり、『大丈夫ですから、ありがとうございました』と元気そうな張りのある声でした。そこで噂ほどではないと安心したのですが、見舞いに行った人からの話だと、ベッドからは全く起きられなかったということです」

 取手二高の3年生の夏は、実は石田さんは肩が痛くて、全く投げられなかったという。試合もほとんど出られず、それでも練習だけは続けていた。甲子園入りしても練習禁止を命じ、しばらく休むと肩の調子が奇跡的に元に戻った。「エースの石田が投げられるという喜びで、チームが一丸となった。石田に勝たせてもらった甲子園でした」と振り返った。

 石田さんは茨城県出身。木内監督率いる取手二高では甲子園に春夏3回出場し、3年の夏、決勝でPLと対戦。8-4で初優勝し、茨城初の優勝旗を持ち帰った。秋の国体でも優勝し、負けなしで卒業した。

 翌年、大物ルーキーと期待され早大教育学部に進学。秋季戦から出場を期待されたが、前期試験の休みが明けた7月ごろから練習を休みはじめ、秋のシーズン中に帰省。86年1月、早大を中退して日本石油(現・新日本石油)に入社した。

 88年、大洋(現・横浜)にドラフト5位で入団し、6年間で1勝0敗の成績。94年の戦力外通告後も、打撃投手として横浜一筋に活躍。制球力の高さを買われ、主力相手に投げることが多かった。今年3月のオープン戦期間中に直腸がんが判明し、4月に摘出手術。週1回の抗がん剤治療を続けながら現場復帰を願い続けていたが、すでに転移は進行していた。

 通夜は17日午後7時、葬儀・告別式は18日午前10時、横浜市港北区菊名7の10の8、新横浜奉斎殿で。喪主は妻、寿美江(すみえ)さん。