8月30日20時8分配信 産経新聞
今年、NHKで放映されたドラマ『フルスイング』の主人公は、プロ野球の打撃コーチから高校教師に転身。指導者としての甲子園出場を夢見ながら、志半ばで膵臓(すいぞう)がんのため死去した高畠導弘さん(享年60)がモデルだった。今夏の甲子園で準優勝した常葉学園菊川(静岡)の佐野心(こころ)監督(41)も同じくプロ出身。元中日の選手で、高畠さんの教え子だった。師匠の遺志を継ぐ佐野さんの甲子園までの道をたどった。(三浦馨、坂井朝彦)
■親子二代のプロ
甲子園の決勝は0-17と思わぬ大差となったが、「うちの野球はすべてできた。選手には感謝したい」。佐野さんは満足そうな表情だった。
野球部長として昨春の選抜では全国制覇を経験。前監督のセクハラ問題による辞任で今年5月、急遽(きゅうきょ)指揮官となった。チームを“どん底”から甲子園へと導いた佐野さんを、選手は準優勝では異例の胴上げ。精いっぱい感謝の気持ちを伝えた。
佐野さんは親子二代のプロ野球選手だった。父の真樹夫さんは専大の内野手として活躍し、1965年の第1回ドラフトで広島の1位指名を受け、4年間在籍した。
佐野さんは小学4年から真樹夫さんと二人三脚でプロを目指した。右投げ左打ちの外野手として浜松商(静岡)から専大へと、父と同じ道を歩み、東都大学リーグでは首位打者も獲得。社会人のいすゞ自動車を経て91年、中日のドラフト6位指名を受けて入団した。
「ドラフト史上初の親子指名選手」として話題となった。「おやじを超えなければという気持ちはない。ただ、2人でやってきたことが間違っていなかったと証明できれば…」。希望に胸を膨らませたが、現実は厳しかった。
92年から4年間在籍し、27試合出場で11打数1安打1打点、盗塁4の成績。95年に戦力外通告を受けた。
■高校の指導者に
現役を続けるため他球団のテストを受ける選択肢もあったが、「長く野球にかかわりたい。1軍と2軍を行ったり来たりするより、アマチュア野球の指導者資格を取ろう」と決意した。
高校野球を指導するにはまず2年以上の教職経験が必要だ。佐野さんは母校・専大で教員免許取得に必要な科目を履修。すでに妻と長女がいたが、生活はアルバイト収入が頼りとなった。
「『思ったようにチャレンジして』と妻は後押ししてくれたが、つらい思いをさせました」
浜松商時代の恩師の紹介で2000年に常葉学園菊川の社会科教師に。2年後、念願だったアマの指導者資格が日本学生野球協会から認定された。「忘れもしない2002年4月1日です」
それまで近づくことも遠慮がちだった野球部のグラウンドへ、初めてそっと足を踏み入れた。「その感激と言ったら…。うれしくて一日中泣いていました」
祝いの電話をくれたのが当時ロッテのコーチだった高畠さんだった。「よかったな! おれも続くぞ」。その言葉通り、高畠さんは翌03年から筑紫台(福岡)の社会科教師となった。
■対戦の夢かなわず
戦後の甲子園では1963年夏、阪神などで投手として活躍した真田重蔵さん率いる明星(大阪)が全国制覇。春2回、夏1回優勝した池田(徳島)の蔦文也監督も、かつて東急(現日本ハム)に在籍した。
だが、プロ野球による社会人選手の強引な引き抜き(柳川事件)を契機に、アマチュア側の受け入れが厳しくなって以降、プロ経験者が監督となり、甲子園へ出たのは佐野さんが2人目だ。
それ以前は東映(日本ハム)に在籍し、瀬戸内(広島)を率いて91年春と2000年夏に出場した後原富(せどはら・ひさし)さんの例があるだけだった。
部長、監督としてこれまで6年間、高校野球を指導してきた佐野さんは自分のいたプロとアマの違いについて悩み、考え抜いた。たどり着いた答えは「アマでは勝っても負けても選手をほめてやろう」だった。
「プロではイチローが無安打に終われば『なんだ』といわれ、松井(秀)に本塁打が出ないとお客はがっかりする。それでお金を取っているからです。その点、アマは勝つことを使命としていない」
自チームの攻撃で二塁打か、三塁打か判断に迷う当たりを「二塁で止めろ」と命じる高校野球の監督も多い。だが、常葉学園菊川では迷わず「三塁へゴー」だ。「それがアマ。アウトでもOKです。正々堂々、逃げないプレーをすればいい」
だからこそ大差のついた決勝でも佐野さんと選手は笑顔でいられた。
高畠さんは教壇に立って2年目の04年夏に死去。伝説の打撃コーチが育てた選手は現役でもソフトバンクの小久保、ロッテの福浦、サブローらが活躍中だ。
「この人が高校野球を手がけたらどうなるのか」。佐野さんは高畠さんとの甲子園での対決を楽しみにしていたが、願いはかなわなかった。「神様は無情だなと思います」と残念がる。
「お前が高校野球でがんばれば、きっと後輩(プロ退団者)の道が開けるぞ」。高畠さんの言葉を胸に、佐野さんはグラウンドへ立ち続ける。