◆スポーツ賛歌

 ◇夢舞台で自信増す--夏の甲子園連覇の捕手・原勝彦さん(78)
 戦後、野球部の募集があり、友人に誘われて少し遅れて入りました。捕手の成り手がなくて、「原、やれ」ということで捕手になったんです。

 捕手の基本が何もできていなかったので、鬼塚格三郎監督には初歩的なことを徹底的にやらされました。皆がバッティングをしているのに、私だけずっと送球の練習。おかげで動作が速く、コントロールも良くなり、肩はそれほど強くなかったのにプロ野球でも捕手として飯が食えました。

 <1947年の夏の甲子園で初優勝。決勝の岐阜商戦での試合時間1時間12分は、現在も残る大会最短試合記録だ>

 投手の福嶋(一雄)君が「原さんのサイン通りに投げた」と言っていますが、それはうそです。それだけで6対3の試合があの時間で終わるわけがない。福嶋君は本当に頭のいい投手で、次にどこにどんな球を投げたらいいかを考えているんですね。だから私がサインを出しても、呼吸が合っているのですぐに投げることができたんです。

 相手がスクイズをやりそうな時は、外さずにあうんの呼吸でインコース高めにシュートを投げてフライに仕留め、ダブルプレーを狙っていました。それで絶体絶命のピンチをしのいで勝ったことが何回もありました。

 <翌48年の夏の甲子園には主将として臨み、見事連覇を果たす>

 開会式で私が優勝旗を返還し、8日後にまたもらって小倉に帰りました。その時に詠んだのが「8日間 預けただけの 優勝旗」という句です。2連覇の時は県大会で1点を取られただけで、あとはすべて0点に抑えた。甲子園も5試合連続完封。それぐらい前年よりも技術的にも上回っていた。負ける気はしませんでしたね。

 決勝の桐蔭(和歌山)戦では、途中で相手捕手のマスクのひもが切れたんです。それで私のマスクを交代で使ったんですが、夏で汗まみれになるのでタオルでぬぐって渡していました。それに福嶋君もチェンジのたびボールをマウンドのプレートの上に置いてからベンチに戻った。我々は何気なくやっていたことなんですが、そんなマナーの良さが当時は非常に好感を呼んだようです。

 甲子園(西宮球場を含む)に計5回出ましたが、やはり人生の中で一番忘れられない思い出です。県大会でエラーしていても、夢舞台ではノーエラーになる。いつも実力以上のものが発揮できて、どんどん自信が生まれていった。だから、よく言われていますが、甲子園には本当に「魔物」がすんでいると思います。(次回は13日)

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 ■人物略歴

 ◇はら・かつひこ
 高校1期。1949年卒業。明治大に進学。住友金属小倉製鉄所を経て、プロ野球・近鉄に入団。6年間在籍し、武智文雄投手がパ・リーグ初の完全試合を達成した試合でマスクをかぶり、決勝打も放った。その後、電通で勤務。


毎日新聞 2008年7月6日(6日15時1分)