斎藤 秀三郎(さいとう ひでさぶろう、1866年(慶応2年) - 1929年(昭和4年)は、明治・大正期を代表する英語学者・教育者。宮城県仙台市出身。 Wikipedia
「 お言葉ですが・・・・❺ キライなことば勢揃い 」
高島俊男 (たかしま・としお 1937~)
株式会社文藝春秋 2001年2月発行・より
雑誌に斎藤秀三郎 『斎藤和英大辞典』 の復刻版の広告がのっていた。
昭和三年に出た大昔の和英辞書だが、いまでも需要があるのですね。
いや実は小生も持ってはいない。
しかし有名な辞書だから、その名はかねてより知っている。
たいへん個性的な辞書なのである。
斎藤秀三郎というのがたいへん個性的な人なのだから当然だけれども。
なお、辞書というのは著者として名前を出している人が実際には書いてないことが多いのだが、これは、一人の助手も使うことなく、
はじめから しまいまで著者が自分の手で書いた辞書である。
(略)
斎藤秀三郎は ケタはずれの人物だから、逸話は数々ある。
なかでも わたしが最も好きなのはつぎの話である。
斎藤秀三郎には こどもが七人あった。
その幼時から斎藤は常々嘆じていた。
「 この子たちはいずれ結婚するだろう。結婚式には出ねば なるまいなあ。合計七日も勉強を休まねば ならないのか 」
こどもたちは、ぼくが(わたしが)結婚する時お父さんは式に来てくれるかしら、と心配しながら大きくなった。
直接たのめば よさそうだが、斎藤秀三郎は書斎で勉強ばかりしていて食事も一人でとる。
こどもたちがお父さんにあうには、書生をつうじて面会申込みをしなければならなかった。
(略)
三大英語名人とか四大英語名人とか言われる人たちがいた。
「英語名人」は、かならずしも 「英語のよくできる人」 とイコールではない。
たとえば漱石は、当時の日本で最も英語のできる人であったが、「英語名人」 とは言わない。
英語名人と言われるのは、辞書や学習書を作ったり、英語学校で教えたりしている人、つまり英語で食っている人たちである。
神田乃武(ないぶ)とか井上十吉とか。
神田 乃武(かんだ ないぶ、1857年3月22日(安政4年) - 1923年(大正12年)は、明治時代から大正時代にかけての日本の教育者、英学者。男爵。
井上 十吉(いのうえ じゅうきち、文久2年(1862年) - 昭和4年(1929)は、明治期の英語学者、和英辞典編纂者、官吏。ヘボンの影響を脱した最初の和英辞典である『新訳和英辞典』を完成させた。
英語名人は、英語という神につかえる神職である。
そういうもの として、全国英語学習者、つまり英語教信者たちの尊敬を集めた。
そして、最も純粋に神職らしいのが、この前お話した斎藤秀三郎だった。
なにしろこの人は、ほかの英語名人たちとちがって一歩も日本を出たことがない。
すべて日本国内での修練である。 それで英米人より英語ができる。
そこが いかにも神秘的で ありがたい。
イギリスからシェイクスピア劇団が来て日本で公演した際、斎藤先生
見に行って、舞台上の シェイクスピア英語の誤りを客席から大声で指摘する。
それがいちいち当っているので英国の俳優たちが頭をかかえた。
信仰があつまるわけだ。
『斎藤和英大辞典』 が出た時、萩原恭平は斎藤を 「英語そのものの
ために英語を研究する英学者」 とほめたたえた。
斎藤の死後石川正通は、「英語は既に先生の宗教になって居た」 と
書いている。