~ 谷沢永一が ミハイル・S・ヴォレンスキー著 『ノーメンクラツーラ』 を紹介しています。 ~
「 人間通になる読書術 」
谷沢永一 (たにざわ えいいち 1929~2011)
PHP研究所 1996年11月発行・より
スターリンは帝政ロシアの秘密警察のスパイであった。
スターリン~ 1878年12月18日(ユリウス暦 12月6日) – 1953年3月5日)は、ソビエト連邦の政治家、軍人(職業軍人ではない)。レーニンの死後、29年間に渡り同国の最高指導者の地位にあった。 ~Wikipediaより
革命党のボルシェヴィキに先入して、党内の情報を注進するのが役目である。
国家警察本部長のためスターリンが有益な諜報活動を行った旨の部内報告書が発見されている。
(略)
秘密警察は他の運動家と等し並みにスターリンを逮捕投獄するが、またスパイとして休みなく活動させるためには、できるだけ早く社会に戻さねばならない。
警察は必ず彼を逃がすのである。
スターリンは死ぬまで自分の明細な経歴年譜を発表させなかったが、そこには絶対に隠蔽せねばならぬ秘密の事情があったのだ。
スターリンの経歴で最も特徴的なのは、秘密警察に六回も逮捕されているのに、彼だけが必ず直ちに脱走できた不思議な記録である。
(略)
スターリンの出世志向と野心と権力慾は人間としての極限をゆくほど熾烈であった。
皇帝政府が安泰であれば秘密警察の有能な貢献者として官僚機構を次第に駆け上がってゆこう。
もし逆に革命が勝利して政府が顚覆(てんぷく)すれば、尖鋭なボルシェヴィキ組織の中枢に身を置く革命家としての経歴に基づき、国家権力をまるごと我が手に奪取する道が開けるであろう。
慎重なスターリンは危険を冒して二頭の馬を御し、いぜれの場合にも必ず権力者であろうと念じた。
(略)
それはともかく、多少ともスターリンに関心のある人なら、かならず、スターリンに限っては詳しい年譜がどこにも発表されていないという事情に、
ひとしお奇異の念を禁じえないであろう。
彼のしたことを考えあわせればよい。
ソ連国内はもちろんのこと、衛星諸国のすべてに馬鹿でかい自分の銅像を立てまわしたこの男が、自己顕示慾のかたまりであった事実は言うまでもない。
それくらいなのだから、自分の詳しい詳しい年譜を作成させて、革命家としての輝かしい経歴を、全世界に誇示してもよかろうではないか。
しかし、あれほど自己宣伝に汲々としていた彼が、年譜を編ませることだけはしなかった。
その理由は明白である。
若き日の彼が、彼に限ってだけ、投獄されるや直ちに脱獄するという奇跡を何回も何回もくりかえしている不思議な経歴が明るみに出れば、常識のある者なら誰でも、これはおかしい、と思うであろう。
そこから必然的に重大な疑惑が生じる。
すなわち彼が帝政ロシアのスパイであったという前歴が暴(ば)れる。
スターリンはそれを深く怖れたのである。
そしてまたスターリンは、人を見たら泥棒と思え、ではなく、人を見たら
スパイと思え、という極度の猜疑心にこりかたまっていた。
この場合、もし世界中の共産主義者すべてが、同志をすべてスパイと思いこむ癖があるとするなら、この疑惑根性は共産主義者に共通の性行なのであろうと考えることができる。
しかし事実はそうではない。
スターリンだけが、ひとりスターリンだけが、病的な猜疑心のかたまりであった。
これには余程ふかい根源の理由がなければならない。
その謎を解く鍵ががヴォレンスキーによって提示されているのである。
事情は明々白々ではないか。
スターリンは帝政ロシアの走狗としてのスパイという役割と、帝政ロシアを打倒しようと努める革命家としての役割と、両方を兼ね備え、最終的には勝った方に従属して出世するつもりであったのだ。
自分自身がそうであるのだから、すべての同志がかつての自分のように
スパイを兼ねていると考え、とことん疑うのは当然の成り行きだったのである。
『 「嘘ばっかり」 で七十年 』
谷沢永一
株式会社講談社 1994年11月発行・より
スターリン・スパイ説は、1972年に西ドイツに亡命したロシアの内部事情に最も通じた学者のひとりであるミハイル・ヴォレンスキーの 『ノーメンクラツーラ』 の中に書かれていることだが、ここに出ていることは、ほぼ間違いないだろう。
スターリンが革命家の道を歩みはじめたときには、れっきとした保護者がいたものと認められる。
半年間、スターリンと一緒にバクーの牢獄にいたことのある社会革命党員ベレシチャークは、1928年に発表した回想録の中で、当時のスターリンについて書いている。
牢獄の中、しかもみな政治犯で、戦々恐々としていたときである。
そんな暗い状況の中でも、ベレシチャークの回想によれば、
「・・・・意外な特徴が一るある。囚人の間にあってただ一人コバ
(スターリンの俗称)だけが毅然としている。彼は自分の運命など
気にもかけず、仲間の囚人が処刑のためにつれ去られたすぐ
あとでも平気で眠り、あるいはエスペラント語を勉強していた」
という。
実にあっぱれなものである。
「コバは看守が行う排列撻刑の際もなぐりかかる銃床尾の、雨霰
の攻撃の下を平然とくぐりぬけ、マルクスを読んでいたという。
彼は明らかに看守が自分だけにはひどい事はしないであろうと
確信していたのである。・・・・・・
2020年3月22日に 「スターリンを擁護した東大教授」 と題して中川八洋と谷沢永一の対談を紹介しました。コチラです ↓
https://ameblo.jp/hitosasiyubidesu/entry-12549635146.html
2020年3月21日に 「スターリンと毛沢東は犬猿の仲だった」 と題して鳥居民の文章を紹介しました。コチラです。↓
https://ameblo.jp/hitosasiyubidesu/entry-12552108763.html
5月21日の奈良地方裁判所の前庭