「 学校では教えてくれない戦国史の授業 秀吉・家康 天下統一の謎 」
井沢元彦 (いざわ もとひこ 1954~)
株式会社 PHPエディターズ・グループ 2017年11月発行・より
家康を従えることに成功し、東海地方の憂いを払拭(ふっしょく)した秀吉は、かねてからの懸案だった九州征伐に乗り出します。
当時の九州は豊後国(大分県)の大友宗麟と薩摩国(鹿児島県西部)の島津義久によって事実上二分されていました。
大友氏も島津氏も鎌倉以来の名門守護大名で、両者は 「九州北半分の王者大友」 と 「九州南半分の王者・島津」 としてその勢力を拮抗(きっこう)させていました。
しかし、天正六年(1578)の耳川の合戦で大友が大敗北を喫してからは、島津に領地を奪われ、大友は危うい状況にありました。
このままでは、大友は島津に滅ぼされてしまう。
危機感を感じた大友宗麟は、秀吉に助けを求めました。
(略)
大友の願いを受けた秀吉は天正十三年(1585)、両者に停戦を命じます。
島津も一度は停戦を受け入れようとしますが、現場での争いは収まらず交戦状態が続きました。
この後も秀吉は島津に大友から奪った土地を返すように命じますが、島津はこれを拒否。
ついに秀吉は 「九州征伐」 を決意します。
ここで私がこれまでとは違う言葉を使ったことにお気づきでしょうか。
これまでは四国討伐というように 「討伐」 という言葉を用いていましたが、九州では 「征伐」 を用いました。
同じ意味を持つと思われがちな 「討伐」 と 「征伐」 ですが、この二つの言葉には決定的な違いがあります。
「征伐」 という言葉には、野蛮な悪いやつらをやっつけるという差別的な意味合いがあるのですが、実はこの言葉を使えるのは、基本的に天皇だけなのです。
幕末、幕府と対立した長州藩に対して幕府軍は 「長州征伐」 という言葉を用いていますが、このときにも孝明天皇の許可をもらっています。
つまり、天皇から 「あいつをやっつろ」 という命(めい)を受けた戦いのときだけ 「征伐」 という言葉が使えるのです。
では、九州征伐も天皇の命だったのでしょうか。
違います。実はもう一人、「征伐」 という言葉を使える人がいるのです。
それが、天皇と同等の権限を持つ関白です。
関白は天皇の権限をすべて代行できるので、関白になると 「征伐」 という言葉を正式に使えるようになるのです。
「征伐」 とい言葉を用いるということは、その軍は官軍であり、敵は 「朝敵(ちょうてき)、つまり天皇家の敵という不名誉な立場になるわけです。
秀吉はこの時点で関白になっているので、秀吉を 「成り上がり者」 と見下し、その命に従おうとしない鎌倉以来の名家を誇る島津に、関白としての権威を以て対抗したのです。
結果は秀吉軍の勝利。
島津は今の鹿児島県内、当時の名前でいうと薩摩、大隅、それに日向(宮崎県)の一部だけを安堵され、のこりの領地はすべて取り上げられました。
5月29日の興福寺