明治期に中国へ出稼ぎに行った学者たち  | 人差し指のブログ

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「 ほめそやしたりクサしたり 」

高島俊男 (たかしま としお 1937~)

大和書房 1998年7月発行・より

 

 

 

 

 

 明治三十年代のなかばごろというのは、学者や教師が中国へ出稼ぎに行くのがはやった時代であった。

 

 

 当時、清国政府は各地に新式学校を興したが、近代的な教育のできる教員が全然足りない。

 

 

西洋人を招聘して教えてもらうのが理想的だが、高くつく。

 

 

そこで比較的安い給料で来てくれて、西洋近代の学問や技術も一通り

心得ている日本人を大量に雇い入れた。

 

 

安いといっても日本での給料のだいたい三倍くらい出したから、生活の

苦しい知識人がぞくぞく中国へ渡ったのである。

 

 

 この日本人のお雇い教師を、中国では 「日本教習(リーペンチアオシー)」 と呼んだ。

 

「教習(チアオシー)」 はだいたい日本語の 「教師」 にあたる。

そう敬意のこもった呼称ではない。

 

 

 

 著名なところでは、東大在職のまま京師大学堂(のちの北京大学)の

師範館正教習になって行った服部宇之吉、天津の北洋法政学堂で教習をしたのち帰国して東大教授、そしてやがて大正デモクラシーのリーダーになった吉野作造、それに、北京警務学堂でこれはもっぱら経理をやっていた二葉亭四迷などがある。

 

 

田岡嶺雲が上海および蘇州で教習をしたことは別に書いた。(本書208ページ 「鳥の将に死なんとす」)。

 

 

 なお、京師大学堂での服部の月給が六百円で、これが中国全土に千人くらいいたという日本教習の中で一番の高給取りであったようだ。

 

 

当時小学校教員の月給が二十円か三十円くらい、東大教授でも百三十円から百五十円くらい、千円あったら土地つきの家が買えたのだから、月給六百円は豪勢であった。

 

 

 

 

                         1月13日 奈良市内にて撮影