日本の祭りには二つの系統がある  | 人差し指のブログ

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「 見渡せば柳さくら 」

丸谷才一 (まるや さいいち 1925~2012)

山崎正和 (やまざき まさかず 1934~)

中央公論社 昭和63年6月発行・より

 

 

 

 

山崎 勉強不足で、歴史的な根拠は知らないのですが、日本の祭には

    二つの系統があるように思われます。

 

 

    ひとつは荒れる系統の祭です。

        荒ぶる神を祀るというか、たとえば神木を争って裸でもみあうとか、

        あるいはお神輿をかついでもみにもむという系統があります。

 

 

    もう一方に、山車とか、曳山とか、鉾と呼ばれる車を曳いて歩く系統

    の祭があります。

 

 

    これは、京都の祇園祭を筆頭に、八尾の曳山に至るまで、どこでも

    みな静かです。

 

 

    しかし二系統あるとしても、祭神でも区別がつかないし、地域でも

    区別がつかない。

 

 

    都市の祭と農村の祭に分けられるかとも考えているのですが・・・・。

 

 

丸谷 それに対する答えになるかどうかわかりませんが、東京の祭でも、

    お神輿をかついで暴れるというのは、わりに新しいことらしい。

 

 

    というのは、お神輿には宮神輿と、町神輿と二つがあるそうです。

 

 

    宮神輿というのは神社に属している神輿で、これは荒れる。

    もみにもむ。

 

 

    ところが、町神輿というものは明治中期に発生したものらしい。

 

 

    市電の電線、電信柱の電線にひっかかるというので、山車が廃止

    させられたからだそうです。

    (略)

 

    それはともかく、京都には今でも山車があるのに、東京にはない。

 

 

    その理由としては、明治の藩閥政府が東京の祭を圧迫したことが

    挙げられるらしい。

 

 

    神田の明神祭、山王祭は徳川家のお祭りで、三社祭もたしか家康と

    関係がある。

 

 

    そのせいで、明治政府は東京の祭を圧迫したらしいですね。

 

 

     圧迫したくなる気持ちもわかる。

 

    祭にはいろいろな要素があって、たとえばカーニバルの場合でも

    第一に年の更新、第二に豊穣祈願とか災厄よけ、第三に階級闘

    争、政治的意見の表明という要素があるわけです。

 

 

    それらがいつも出るわけではありませんが、時に応じていろいろな

    面が出てくる。

 

 

    政治的不満の発揮なんて面も時には出てくる。

 

 

    明治のなかば頃、特に東京という地域においては、それが出やす

    かったでしょうし、あるいは為政者が疑心暗鬼になってそう取ること

    はあったでしょう。

 

 

山崎 それに反論するわけではないのですが、それ以前から、日本の

    祭には二つの種類があるような気がしてしようがない。

 

 

    一方は一種の狂騒状態になる祭、もう一方は整然とした、のんびり

    とした祭です。

 

 

     それに関連して思うのは、前に 「桜」 の章でも話しましたが、

    猿楽と田楽との違いです。

 

 

    田楽というのは人を狂わせる舞いです。

 

 

    これは農民系統の舞いでして、豊作祈願の呪術と結びついた性的

    放埒を起源にしているんですね。

 

 

    田楽に関して記録が残っている逸話は、たとえば北条高時が田楽

    に狂って遂に幻を見たとか、京の町が田楽で狂って、庶民はもちろ

    ん、公家までが街路で我を忘れたとかいうものです。

 

 

    ところが、猿楽のほうは、系統からいいますと宮中技芸の散楽を

    由来としていて、都市的な芸能です。

    こちらのほうは、狂ったという記録がまったくない。

 

 

    どうも、秩序を体現するような芸能と、秩序の紊乱をテーマとするよ

    うな伎芸と、二系統があった筋道がわかるような気もするのです。

 

 

    それを思いうかべると、歴史的な根拠はないけれども、俗に二系統

    があった筋道がわかるような気もするのです。

 

 

     荒れるほう、もむほうというのは、日本の古代の農業呪術的なもの

    に密着していて、例えば岡山の白木の神木が出る裸祭のようなもの

    です。

 

 

    お神輿は今ではきれいに飾られていますけれども、あれは樽神輿

    でもいいわけでして、おそらく原形は白木の神木だろうと思うんで

    す。

 

 

    それに対して山車系統は、古典的教養、王朝趣味、あるいは中国

    趣味が尊重される都市の祭です。

 

 

    例えば 「ねぶた」 も たぶんこの系統のもので、あれははっきりと

    唐もの趣味ですね。

 

 

丸谷 歌舞伎の荒事と和事のように、芸能に関して二分法的思考があり

    ますが、その二分法的思考の根拠には、民族的なある意識がある

    のではないかと思います。

 

 

     山車が禁止されてお神輿になったとき、これはいわばチャンネル

    の切換えで、和事から荒事にいった ようなもの でしょう。

 

 

    山車を揺すぶったりしたら危なくてしようがないから、そんなことする

    はずない。

 

 

    山車の上で演じていたのは荒事だったかもしれないけれども、お神

    輿のような物騒な騒ぎではなかったのはたしかです。

 

 

    それを平然と切り換えて、疑わないということがある。

 

 

    民族の意識の根拠にもみに もむお神輿の伝統がなければ、ああい

    う切換えはできないと思います。

 

        ~ 胡弓を奏く祭 『中央公論文芸特集』 ’87年冬季号 ~

 

 

 

 

                  奈良・東大寺の 鐘楼 12月29日撮影

 

                    あの人も  この人も死んで  除夜の鐘