「 翻訳と日本文化 」
編者 芳賀徹 (はがとおる 1931~ 比較文学者)
(財)国際文化交流推進協会 (エース・ジャパン)2000年4月発行より
俳句は英訳できるのか 翻訳という営みの本当の意味を考えるために
上田真 (うえだまこと 1931~スタンフォード大学教授)
俳句が写象的な詩であるというのは、子規(しき)の写生論以来よく言われてきたことで、日本人にとって目新しいことではない。
だが、主観性の強い英詩を読み慣れた人々には、これはきわめて斬新なものとして映る。
たとえば 「やがて死ぬ けしきは見えず 蝉(せみ)の声」 という芭蕉の句だが、この句は日本ではあまり高く評価されていない。
内藤鳴雪(めいせつ)など、「詩趣はほとんど零(ゼロ)に帰した」 と酷評しているほどである。
ところが、サリンジャーの短編 『テディ』 の出てくる天才少年テディは、この句が大好きなのだ。
なぜ好きかというと、それはこの句に情緒がないという、まさにその一点によってである。
彼の説明では、「(西洋の)詩人はいつも天氣をひどく個人的に考えすぎるんだよ。彼らはいつも情緒のないものに情緒を押し込めようとしている」 ということになる。
英詩では作者が感情を強く吐露(とろ)して読者に訴えようとするが、俳句ではイメージが提示されるだけで、読者は各自でそのイメージに反応する自由をもつ、そこのところが好ましいのである。
個人主義の時代に生きる読者のとっては、作者によって主観を押しつけられるような英詩よりも、解釈を読者個人に任せてくれる俳句のほうが魅力的だということなのであろう。
サリンジャーの短編では、「やがて死ぬ」 の句は散文訳で挿入されていて、注釈のようなものは何もついていない。
次のように出ているだけである。
Nothing in the voice of the cicada intimates how soon it will die,
英米の多くの地域に蝉はいないし、いるところでも日本の蟬のあの騒々しさはない。
もちろん、『万葉集』 以来の蝉にまつわる日本文学の伝統とも無縁である。
だから英米の読者たちは、この句を日本人のように読むことができないだろう。
しかし、彼らにとってそんなことは問題ではない。
無常という感傷的なテーマを、蝉の声というイメージによってさらりと
詠(よ)み流した、そこが魅力的なのである。
この英訳も、文句をつけようと思えばいろいろ文句をつけられようが、短編のコンテクストからすれば、適訳といわねばならないであろう。
2016年12月18日に 「セミを知らないアメリカ人」 と題して鈴木孝夫の文章を紹介しました。コチラです。↓
https://ameblo.jp/hitosasiyubidesu/entry-12227962215.html?frm=theme
2019年9月14日に 『イソップ童話の「翻訳・誤訳・意訳」』 と題して
奥本大三郎とアーサー・ビナードの対談を紹介しました。コチラです。↓
https://ameblo.jp/hitosasiyubidesu/entry-12522122895.html?frm=theme
12月12日 奈良・東大寺大仏殿付近にて撮影