日本史を知らなかった吉田松陰 | 人差し指のブログ

人差し指のブログ

パソコンが苦手な年金生活者です
本を読んで面白かったところを紹介します

「 吉田松陰を語る 」

著者 奈良本辰也 他

大和書房 1974年12月第一版 ~ 1990年2月発行・より

 

 

 

  ~ 西郷隆盛と松蔭の比較 ~

 

海音寺潮五郎 (かいおんじ ちょうごろう 作家 1901~1977 )

奈良本辰也 (ならもと たつや 歴史家 1913~2001)

 

 

 

 

奈良本 もう一つは、その当時の連中は中国のことを知っているんです

      よ。

 

 

      吉田松陰でも、支那の歴史だったらよく知っているんです。

 

 

      ところが日本の歴史は知らないんです。

 

 

      長崎に行った時に、初めて日本という国はいかなる国かを考え

      なければならなくなってきた。

 

 

      オランダの船が来たりなんかしていますから。

 

 

      この国がいったい何かというのは、歴史を見なきゃいけない。

 

 

      その歴史は水戸の 『大日本史』 が、当時信頼すべきものです

      ね。

 

 

      水戸学をやらなきゃならないということですよね。

 

 

      それで松蔭は水戸を見直さなきゃならなくなった。

 

 

海音寺 それで水戸へ行って 『六国史』 を読まなければいけないと言わ

      れたが、 『六国史』 という書物の名前を聞くのも、松蔭は初め

      てだったらしい。

 

 

六国史(りっこくし)~日本における国家事業としての史書の編纂は飛鳥時代から平安時代前期にかけて行われ、6つの史書が残されたため、これを六国史と呼んでいる。そのため、日本において単に国史と言えば、六国史のことを指す場合がある。

日本書紀以前にも『天皇記』、『国記』などの編纂が行われた記録があるが、これらは現存していない。また六国史の後も「新国史」と称される国史編纂計画は存在したが完成には至らなかったと言われている。

また明治維新後にも六国史以降を対象として、史書編纂は計画されたがさまざまな事情により実現せず、代わりに大日本史料が編纂されることとなった。~wikipedeia より

 

 

 

      それで帰って牢屋にほうり込まれて、『六国史』 を兄さんに差し

      入れてもらった読んでいる。

 

 

奈良本 それまでは 『二十一史』 なんかですよね、中国の。

 

 

      いってみれば、大正のインテリみたいなもので、大正時代のイン

      テリというのは、外国のことは大変よく知っているけれども、日本

      の歴史は一つも知らない。

 

 

      日本の文化は二流だという、そういう考え方がありましたけれど

      も。

 

 

      あの当時もそういう事があったと思うんです。

 

 

      それをあえて堂々とやったのは水戸学でしょう。

 

 

      金沢正志斎が 『新論』 なんか書いたのも、まさにそれですね。

 

 

海音寺 江戸時代には諸藩に藩黌(はんこう)というものがありますね。

 

 

      長州の明倫館があり、薩摩に造士館があるというようにね。

 

 

      その藩黌の教授科目に史学があるのですが、これは支那史で

      す。

 

 

      春秋・左伝・史記・漢書・後漢書・三国志などの支那の歴史書で

      す。

 

 

      日本史ではありません。

 

 

      日本歴史は学問の対象にならないと考えられていたのでしょう。

 

 

      ところが水戸は違う。

      日本を明らかにすること、自分の足元を固めて、国柄というもの

      に対する自覚を持つということ、これがしっかりしないと外国に対

      して何もできないではないかという事から万事をはじめるわけで

      す。

 

 

      それで、日本人とはいかなるものかという自覚に立ち、国柄の

      美しさを知り、これを護持し、犯すものは容赦なく打ち払えという

      ことになる。

 

 

奈良本 攘夷思想ですね。

 

 

海音寺 現実面に適用してそれが役に立つか立たないかということは

      適用前の時点ではわからんが、一応の対策であるには違いない

      ですからね。

 

 

      ほかの藩の学者は五里霧中で、なんにも対策を持たんのですか

      らね。

 

 

      無為無策の人は青年には全然アピールしませんよ。

 

 

      松蔭はこの水戸の攘夷説に打たれて帰って来て、説きはじめた

      のですね。

 

 

      当時長州には学者はだいぶいたはずですが、それらの学者は

      時事問題についてはすべて無為無策であった。

 

 

      松蔭だけがそれを活発に取り上げて、対策を研究したのです。

 

 

      これは若い連中にとっては非常に魅力的だったはずですよ。

 

 

      その上、松蔭という人はたいへん純粋な人で、天性教育家にで

      きているような人ですからね。

 

 

      青少年らにとっては抵抗できない魅力だったに違いありません。

 

 

奈良本 相手を信じますから。 身分を越えて人間を見ますね。

 

 

 

 

                     12月19日    奈良公園にて撮影

                                      奈良県庁

                                 奈良県庁付近