北大路 魯山人(きたおおじ ろさんじん、ろざんじん・ろさんにん とも
晩年まで、篆刻家・画家・陶芸家・書道家・漆芸家・料理家・美食家などの様々な顔を持っていた。 ~ wikipediaより~
「 東京美術骨董繁盛記 」
奥本大三郎 (おくもと だいざぶろう 1944年~)
中央公論新社 2005年4月発行・より
瀬津吉平氏御本人は一度だけ魯山人に会ったことがある、というか見かけたことがある。
北鎌倉のプラットフォームで電車を待っていた時、叔父さんから、
「あれが魯山人だよ」
と教えられたのである。
写真で見知っていたとおり、眼鏡をかけた大柄なもっさりした親父であった。
魯山人については私も興味があるから、つい、いろいろ訊くことになる。
「そう、魯山人なんかは目利きであるし、作品も上手です。魯山人の作品は将来残るものだと思います。そういう意味では天才なんです。そして作品を一遍で見ぬく人だったんですよ。この人は駄目だとか、どういう才能があるかということがぱっと見える。しかもそれをはっきり言わずにはいられない人だったんですね」
(略)
その魯山人が虎ノ門の店に来て、杖で品物を指して 「いくらだ」 と訊いたことがある。
魯山人が料理の材料の買い出しに行くときは、八百屋や魚屋の店先に人力車で乗りつけ、車上から杖の先で 「これとこれ」 とやるので、店の人の顰蹙(ひんしゅく)を買ったという話は有名だが、骨董店などに来ても同じことをやったのである。
これを見た(小西)春斎氏は 「美術品を杖で指すような男には、ものを売らん」 と言った。
ところがそれ以来、非常に親しくなったという次第。
魯山人晩年の話になるが、小西氏が川端康成を訊ねた帰りに、劇作家で北鎌倉グループの真船豊(まふねゆたか)の家に寄って、白菜鍋をご馳走になっていると、恰幅のいい魯山人が鼻緒の切れた下駄を片手に、
「養子が包丁を持って追いかけてきた」
とハーハー言って逃げてきた。
剣道五段の真船が、
「来たら叩きのめしてやるから」
と言って魯山人を座敷に上げると、小西氏の傍らでガタガタ震えていた。
気が小さくて、見栄っ張りで、そのくせ弱い人間を威(おど)かしては喜んでいる、というところがあった。
東大寺の南大門から見た大仏殿 2月28日撮影
東大寺念仏堂とアセビの花
奈良博物館
日米中韓の言語で書かれた注意看板。「発情期の鹿は危険」と書かれた黄色い注意書きは1日に公園関係者が取り外していました。
奈良県庁前