「 徳川三代 家康・秀忠・家光 」
童門冬二(どうもん ふゆじ 1927~) 他
中央公論新社 1999年11月発行・より
~ 巻頭対談 天下分け目の人間模様 司馬遼太郎/原田伴彦 ~
[ 司馬遼太郎 ] 近江長浜城主になった秀吉は、おそらく信長に
充分会釈して了解をとりつけた上で、浅井の旧臣を
登用した。
その代表格が さきの五奉行の近江衆ということになる。
石田三成が浅井家と関係があったかどうかわかりませんけれど、近江人であることは間違いありません。
一般的にいって、近江の人は算術に明るい。
秀吉は、自分自身、ものを書くのは大義だと感じるような人ですから、
そろそろ官僚を必要とするようになってくると、意識的に近江人を採用したのではないでしょうか。
たとえば、戦争のあとで首実検をして、名前を一々記帳していく、というような仕事をする人たちの間に近江派がいたのではないかと思います。
いまの人とちがって、当時は、誰しも計算ができるというわけには いかなかった にもかかわらず、近江においては算木(さんぎ)という そろばんの前身みたいな計算道具を、ふつうに使っていたらしい。
なぜ近江がそうなのかというのは別の話です。
複式簿記とまではいかないけれど、ちょっとその思想の入った帳簿がありまして、石田三成はそれを こなしたという説すらある。
これは、三成自身がそういう教養があったというよりは、彼が近江の
地下(じげ)からそういう知識を吸いあげていた ということでしょう。
傍証としていいますと、のち秀吉が九州攻めをして、ついに島津を屈服させたときに、三成は秀吉から敗戦処理官を命ぜられました。
このとき三成は秀吉の命令を実行するとともに、島津家に理財の道を教えている。
なにしろ島津家は、九州の新領土をことごとく取りあげられて薩摩・大隅・日向だけに閉じこめられ、とてもやっていけない。
それを三成は 「いや、やっていけるのです」 といって交易経済を説明しているのです。
余分の米や物産は大坂へ回送して売さばき、現金にかえればよい。
回送法、販売法から売りあげの送金法まで教えた上に、それに関する帳簿の必要まで説いた。
その他に、大名家の家計については、べつに小払い張というものを作れば便利だといって、その記帳法を教えたといいます。
島津家としては三成に対して このことで多少の縁ができるのです。
近江の人は、そのように先進的な商品経済に参加できる能力をもっていた。
それに着眼して、能力に磨きをかけさせたのは秀吉だったのでしょう。
三成の最初の教養は、普通の禅寺の和尚さんが教える漢文程度であったと思います。
それが秀吉にけしかけられて、次第に経済経営の才能を身につけていったのだと思う。
~天下分け目の人間模様 『歴史と人物』(1979年10月号)~
6月11日 奈良県庁前にて撮影