清国は中国ではない  | 人差し指のブログ

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「 誰も知らなかった皇帝たちの中国 」

岡田英弘 (おかだ・ひでひろ 1931~2017)

ワック株式会社 2006年10月発行・より

 

 

 

 ところで、清朝は中国王朝ではなく、清帝国は中華帝国ではない。

 

 

1912年2月12日、清の宣統帝(せんとうてい)が退位して、帝国の統治権を袁世凱(えんせいがい)が代表する中華民国に譲った。

 

 

宣統帝は 「ラスト・エンペラー」、すなわち最後の皇帝となった。

これで秦の始皇帝にはじまった中国の皇帝制度は終りを告げた。

 

 

 その印象が強いせいで、一般に清朝は最後の中国王朝だったと思われている。

 

 

またそのために、多くの人は1894~95年の日清戦争は日本が中国と戦った戦争であり、下関講和条約で日本が獲得した台湾は中国から割譲を受けたのだと思いこんでいる。

 

 

 ところが、これはとんでもない誤解である。

実は清朝は中国ではなかった。

 

 

日清戦争は、文字通り日本と清の戦争で、日本と中国の戦争ではなかった。

 

 

中国という国家は、そのころはまだ存在しなかった。

存在しない国家とは戦争できない。

 

 

また台湾は、そのころまで清帝国の辺境ではあったが、中国の一部ではなかった。

 

 

 なぜ清朝は中国ではないと言えるかというと、まず第一に、清朝の皇帝は満州人である。

中国人(漢人)ではない。

 

 

 第二に、清朝は1636年、中国の外の瀋陽(しんよう)(満州)で建国したのであって、中国に入って支配したのは1644年からのことである。

 

 

それから268年間、清朝はたしかに中国を支配したが、中国だけを支配したのではない。

 

 

 清朝の皇帝は、清帝国を構成する五種族に対して、それぞれ別々の資格で君臨していた。

 

 

 まず清朝の皇帝は、満州人に対しては、満州人の 「八旗(はつき)」 と呼ばれる八部族の部族長会議の議長だった。

 

 

モンゴル人に対しては、チンギス・ハーン以来の遊牧民の大ハーンだった。

 

 

漢人に対しては、洪武帝(こうぶてい)以来の明朝の皇帝の地位を引き継いで、かれらの皇帝として支配した。

 

 

チベット人に対しては、元の世祖フビライ・ハーン以来のチベット仏教の最高の保護者、大施主だった。

 

 

東トルキスタンに対しては、「最後の遊牧帝国」 ジューンガルの支配権を引き継いで、オアシス都市のトルコ語を話すイスラム教徒を支配していた。

 

 

 これらの五大種族は、それぞれ別々の独自の法典をもっていた。

 

 

漢人は清朝皇帝の使用人である官僚を通して統治されていたが、他の四つの種族には、官僚制度の管轄は及ばず、原則として自治を認められていた。

 

 

 漢人が科挙(かきょ)の試験に合格して官僚になれば中国の行政には参加できたが、辺境の統治にも、帝国の経営にも、漢人が参加することは許されなかった。

 

 

漢人は清帝国の二級市民であり、中国は清朝の植民地の一つだったのである。

 

 

 それにひきくらべて、モンゴル人は清朝の建国に当初から参加した関係で、清帝国では漢人より優遇され、満州人に準ずる地位を持っていた。

 

 

モンゴル人の貴族たちは清朝の皇族と同じ爵位を与えられ、皇帝から俸禄(ほうろく)を支給されていた。

 

 

モンゴル人の庶民は、それぞれ自分の領主によって治められていて、清朝に税金を払うことはなかった。

 

 

 清帝国の第一公用語は、もちろん満州語だった。

 

 

満州語はシベリアのエヴェンキ語に近縁のトゥングース系で、モンゴル語やトルコ語に似た言葉なので、アルタイ語族の一派と考えられている。

 

 

満州文字は、縦書きのモンゴル文字のアルファベットに手を加えて読みやすくしたものである。

 

 

 第二公用語はモンゴル語だった。 そして第三公用語が、漢文だった。

 

 

清朝時代には あらゆる公式文書は、この三つの言葉で書くのがきまりだった。

 

(略)

 

 これが清帝国の実情だった。

 

 

                                     

 

 

2018年5月25日に 「清国の成立と明史の編纂」 と題して加藤秀俊の文章を紹介しました。コチラです。

https://ameblo.jp/hitosasiyubidesu/entry-12375843289.html?frm=theme

 

 

 

 

                        1月10日 奈良市内にて撮影