大正時代のインテリ  | 人差し指のブログ

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「 二十世紀を読む 」

丸谷才一 (まるや・さいいち) / 山崎正和 (やまざき・まさかず)

中央公論社 1996年5月発行・より

 

 

 

 

山崎 田中智学は十九世紀半ばに生まれた人ですが、国柱会は大正三

    (1914)年に できているんですね。

 

(人差し指・ウィキペディアより)

国柱会(こくちゅうかい 國柱會)は、元日蓮宗僧侶・田中智学(ちがく)によって創設された法華宗系在家仏教団体。純正日蓮主義を奉じる右派として知られる。

 

    隆盛に向かい始めるのが大正十年ごろからで、昭和初年に最隆盛

    期を迎える。

 

 

    たとえば石原莞爾とか、宮沢賢治が入るのも、そのころなんです

    ね。

 

 

     このことを、私は非常に意味があると思っているんです。

 

 

    これは、日本にインテリというものが生まれた時期なんですね。

 

 

    大正七(1918)年に大学の増設が認められたのですが、その前か

    ら少しずつ、たとえば専門学校などの充実が行われてきた。

 

 

    そこで、いわゆる 「インテリ」 が出てくる。

 

 

    「インテリ」 とはつまり、アカデミーでもないし草の根でもない、

    その中間にいる人のことです。

 

 

    平たくいえば昔の 『中央公論』 を読み 「岩波文庫」 を読み、

    そして 「大学は出たけれど」 と嘆いていた人たちです。

 

 

     そういう人たちが急増してくるのは、もちろん昭和初年になってか

    らですが、その芽生えが大正末期に生まれてきた。

 

 

    インテリ特有の誇りと不安と、もうひとつ言えば怨恨が育ってきた

    時代に、まさに国柱会が隆盛を迎えた。

 

    (略)

 

山崎 明治の初期、日本をつくった連中はエリートだったんですね。

 

 

    この場合のエリートとは、古典的な国文・漢文の教養があるか、

    あるいは西洋の知識を直接に体験的に持っている人たちです。

 

 

    彼らが明治の一代目をつくったわけです。

 

 

    それは、学問の世界も軍隊の世界もそうだったわけですね。

 

 

    そこにはいわばアカデミーがあって、森鴎外とか西周(にしあまね)

    か、山県有朋(やまがたありとも)のような人たちがいたわけです。

 

 

 

丸谷 外人教師から直接習った人ですね。

 

 

山崎 彼らはまず、人がびっくりするような給料をもらっている。

 

 

    そして丸谷さんがおっしゃるように、外人教師から直接に習っている

    し、留学もしています。

 

 

    彼らは、国家をつくるという使命感を持ち、広く何もかも知っている 

    「百科辞書」 的な知識人でした。

 

 

 

     ところがやがて大正のころになると、アカデミーも二代目になりま

    す。

 

 

    威張っていることは威張っていますが、二代目のアカデミーはことご

    とく専門化するんですね。

    他のことは知らない。

 

 

    「おれの知識は深いよ」 と言い、広く浅く学ぶ人のことを、ジャーナ

    リストといって軽蔑する。

 

 

    同時に、専門化と裏腹に、反時時性というか、時代の問題などに関

    わるのは学者のすることではない、永遠に関わるのが学者であると

    考えているのが二代目になったわけです。

 

 

     そういう二代目アカデミーの下に、先ほど言った草の根でもない、

    アカデミーでもない、インテリが生まれたときに どうなるかというと、

    万事につけてアカデミーとは反対のことをやりたくなる。

 

 

    まず、時事的問題に発言したい。

 

 

    現に彼らは、自分や家族の体験を通じて、貧困を知り、社会的な問

    題を知っているわけですから、当然、時事的になる。

 

 

    その上に、アカデミーの専門家と競争したって勝てっこないわけです

    から、逆に浅く広く、総合的にものを考える。

 

 

    総合雑誌とはよく言ったもので、それに対応して総合雑誌も生まれ

    た。

 

 

     この二つを足すと、つまり時事性と総合性を足すと、

     「イデオロギー」 という答えが出てきます。

 

 

    要するに社会を改造する、世の中を直すという考え方が出てくる。

 

 

    だから多くのインテリは、少なくとも頭のなかではみんな、社会改造

    論者であったわけですね。

 

 

     とくに ここに、不遇なインテリがいました。

 

 

    まず家庭が貧しいか、身体が弱いか、いろいろな事情によって、

    インテリのなかで比較的草の根に近い人です。

 

 

    もうこれは歴史の話だから言っていいと思うけれども、専門学校にし

    か行けなかった人というのがいるんです。

 

 

    現在の専門学校は意味が違って、人が撰んで行くところですが、

    当時はやむをえず専門学校に行く人が多かった。

 

 

     それが宮沢賢治であり、石原莞爾だったわけです。

 

 

    石原は士官学校出ですが、士官学校というのも専門学校です。

 

 

    しかも皮肉なことに、日本は建前的には、軍の中まで、じつはアカデ

    ミー尊重主義だったんです。

 

 

    世の中が建前として東大卒業生を崇め奉ってるから、インテリとして

    彼らの不満は強くなりますよ。

 

 

     とくに彼らは、インテリであるからには総合的にものを考えたいの

    に、アカデミーとは違う意味で、「専門家」 であることを強制されて

    いたんですね。

 

 

    革新派の軍人たちが、古い日本陸軍を壊滅させなければならないと

    言う。

 

 

    それは何だといったら、山県有朋の陸軍なんですよ。

 

 

丸谷 薩摩と長州の陸軍ね。

 

 

山崎 そう言ってもいいですが、山県有朋は森鴎外と一緒に短歌を作り、

    同じレベルで歴史学の議論のできるアカデミシャンだったんですよ

    ね。

 

 

    そういう権威が専門学校出の、士官学校出の軍人としては、不愉快

    なわけですね

 

 

    真崎とか荒木という将軍は、どうせ傀儡(かいらい)ですよ。

 

 

    本当に安藤や磯部が憎んだのは、山縣の陸軍だった。

    あるいは森鴎外の陸軍だった。

 

 

(人差し指~ウィキペディアより)

安藤輝三 ~ 二、二六事件に関与した皇道派の人物の一人で、軍法会議で首謀者の一人とされ死刑となる。最終階級は陸軍大尉

 

磯部 浅一 ~ 皇道派青年将校 二、二六事件において決起将校らと行動を共にし、軍法会議で死刑判決を受けて刑死した

 

 

 

                        11月8日 奈良公園にて撮影