坂上田村麻呂の農事試験場 | 人差し指のブログ

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「 完本 梅干しと日本刀 日本人の知恵と独創の歴史 」

樋口清之 (ひぐち きよゆき 1909~1997)

祥伝社 平成16年2月発行・より

 

 

 

 米の歴史をあらためて述べるまでもなく、日本人にとって、米は神聖なものであった。

 

 

日本人が稲作について払った努力は、驚くべきものであった。

 

 

 稲はほぼ亜熱帯性の植物である。

 

 

 

坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)(758~811)が、平安時代に征夷代将軍(せいいだいしょうぐん)に任命され、東北征伐(せいばつ)に行って築いたのが胆沢(いざわ)城である。

 

 

この古代の城柵(じょうさく)は、現在の岩手県水沢(みずさわ)市にある。

 

 

 

東を北上(きたかみ)川が流れ、北に胆沢(いざわ)川が流れる台地に、一辺六五〇メートルの正方形に作られた平城(ひらじろ)である。

 

 

そして、この平城の中に、農事試験場が作られていたのである。

 

 

 軍事征伐とだけ考えると大きなまちがいを犯す。

 

 

 

なぜ、自分の城に農事試験場を作ったりしたのか?ここに日本史の大きな鍵がかくされていると言ってよい。

 

 

 結論から言えば、この坂上田村麻呂にしても、後の文室綿麻呂(ふんやのわたまろ)にしても、征伐者というより、開拓指導者だったのである。

 

 

そして、その目的は二つあった。

 

 

一つは、東北を開拓することによって、近畿(きんき)の余剰人口を移植させること。

 

 

もう一つは租税の増収をはかることであった。

 

 

 当時の現地人に稲作を教え、自分たちも稲を作らねばならない。

 

 

しかし、寒冷東北に、稲を定着させるために、稲の改良とか、作付け時期などを研究し、そのために、農事試験場が必要だったのである。

 

 

 胆沢城は、昭和30年に発掘されたが、あらわれた農事試験場は、見事なものであった。

 

 

 日本史で学ぶ”東北征伐”は、武力で押さえつけたような表現で述べられるが、実は近代的な発想を持った文化的な開拓だったのである。

 

 

 東北地方に、佐藤、斎藤など”藤”の姓が多いのは、藤原氏の人々が、近畿地方から、稲作農業の指導者として定着した名残(なご)りと考えてよい。

 

 

東北美人や東北人が、畿内(きない)型の体質を持っているのはそのためである。

 

 

 こうして、耐寒性の稲を完成させ、稲作が定着するのは、平安時代の初期である。

 

 

それまでの稲作の北限は仙台(せんだい)平野であった。

 

 

 

 東北での稲作成功を背景に、豪族安倍(あべ)氏が勢力を持つようになる。

 

 

 しかし、この稲も完全ではなかった。

 

 

いや、稲はよかったのだが、日本は平安時代の後期に寒冷期に入るのである。

 

 

何度も冷害が起り、減収に減収を重ねることになったしまった。

けれども、平安の貴族たちは、おかまいなく税を取りたてる。

 

 

こうして起ったのが、安倍貞任(あべのさだとう)、宗任(むねとう)兄弟の叛乱、つまり前九年(ぜんくねん)の役(えき)(1051~62)である。

 

 

もちろん平安貴族に、乱を平定するだけの力はない。

 

 

出羽(でわ)の豪族清原武則(きよはらたけのり)と源義家(みなもとのよしいえ)が治めるのである。

 

 

こうして、東北は清原一族の支配するところとなった。

 

 

 

 しかし、この清原氏も、安倍氏と同じ理由から反乱を起す。

後三年(ごさんねん)の役(えき)(1082~87)である。

 

 

そして、同じように源義家の力を借りて藤原一族が平定する。

平泉(ひらいずみ)の奥州藤原氏である。

 

 

これらの内乱の延長線上に、保元(ほうげん)(1156)平治(へいじ)(1159)の乱が近畿に起る。

 

 

そうして時代は武家の時代へ入っていった。

 

 

 

 

奈良公園の猿沢池で提灯祭りのようなことをしていました。8月18日撮影