中国の歴史書 | 人差し指のブログ

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「 やはり奇妙な中国の常識 」

岡田英弘 (おかだ ひでひろ 1931~2017)

ワック株式会社 2003年7月発行・より

 

 

 

孔子が 『春秋』 を書いて以来、歴代の王朝の 「正史」、中国共産党の歴史に到るまで、君臣の善悪・是非・正邪・順逆の判決が歴史の最終目的とされているが、その判断の基準は全くの結果論で、成功したから正義、失敗したから不義、というだけのものである。

 

 

 1969年の 『中国共産党規約』 で 

「林彪(りんぴょう)同志は、一貫して毛沢東思想の偉大な赤旗を高くかかげ、もっとも大きな忠誠心を抱き、もっとも確個として、毛沢東同志のプロレタリア革命路線を実行し、守ってきた。林彪同志は、毛沢東同志の親密な戦友であり、継承者である」

と持ち上げられた林彪が、その二年後に非業の最期を遂げて、その一派がことごとく失脚すると、林彪の評価は一転してしまう。

 

 

 かれは大地主兼大資本家の家庭に生まれ、入党後もブルジョア世界観は改造されず、瑞金(ずいきん)で、国民党軍に包囲されたときは、王明(おうめい)(中国共産党中央委員会総書記、本名は陳紹禹)に同調して短期決戦を主張し、長征のときは彭徳懐とぐるになって毛沢東の権力を奪おうとし陝西(せんせい)省北部では独自の遊撃戦を主張し、抗日戦のときは蒋介石を称賛し、戦後の国共内戦では毛沢東の戦略に従わず、朝鮮戦争では劉少奇(りゅうしょうき)とともに参戦に反対し、粛正された高崗(こうこう)・𩜙漱石(じょうそうせき)の黒幕であり、大躍進の失敗後は 「包産倒戸」(生産の個人請け負い)政策を支持し中ソ論争ではソ連修正主義と妥協しようとし、中央軍事委員会では子分に目をかけ、文革では軍隊の指揮権を毛沢東にゆずることを拒否するなど、、「林彪が党に叛(そむ)き国に叛(そむ)いたのには歴史的根源がある」(中共中央専案組『林彪反党集団の反革命的罪状についての審査報告』 1973年7月十日)ということになってしまう。

 

 

そしてこのあとのほうの記述が残って、歴史になっていくのである。

 

 このへんの実情をもっとも正直に告白した人は毛沢東である。

 

1944年4月1日、延安で整風(せいふう)運動を推し進めていた毛沢東は、王明を訪問して、「整風運動の第一の目的は、中国共産党の歴史をぼく個人の歴史として出来得るかぎり書く、ことにある。(中略)われわれがいいたいのは、思想的関係で中国共産党はつねに毛沢東によって指導されてきたのだということ、この二十四年間に中国共産党が達成したものはすべて毛沢東の指導の結果であるということ、そしてこれまでの各時期に党のさまざまな指導者たちが犯してきた数多い誤謬(ごびゅう)のすべては毛沢東によって正されたということ、なのだ」 と言った。

 

 

ついては王明が李立三(りりつさん)の左翼冒険主義路線に反対し、抗日民族統一路線政策を成立させた歴史的事実がじゃまになる。

 

「で、ぼくは一つの案を考えついた。つまり、きみの功績をぼくに譲ってほしいのだ。同意してもらえるかね?」

 

と申し入れている(高田爾郎・浅野雄三訳『王明回想録』79~81頁、経済往来社)。

 

 これを拒んだ王明はモスクワで客死し、中国共産党は毛沢東の筋書通りに書き直された。

 

 

                                      

 

 

 

2015年12月13日に~「歴史書」日本とシナの違い~と題して谷沢永一の文章を紹介しました。コチラです。

https://ameblo.jp/hitosasiyubidesu/entry-12105046526.html?frm=theme

 

 

 

 

                   2月2日 朝霞中央公園(埼玉)にて撮影