「 新編 明治人物夜話 」
森銑三 (もり・せんぞう 1895~1985)
株式会社 岩波書店 2001年8月発行・より
井上通泰(みちやす)先生の玉川の別荘へ、日曜日ごとに上がって、本を見せてもらったり、雑談を聴いたりした。
(略)
先生は、私の質問に答えて、鷗外のことを話されるのに、森君といい、
林太郎(りんたろう)君ともいい、ただ森と呼棄てにもせられた。
鷗外といわれることは、殆どなかった。
先生が、林太郎君、といわれる時、その語には、一種特別な親愛の情が籠められているようだった。
鷗外の両親のことを問うたのに、先生は答えて、森のおっかさんは清少納言で、幸田(露伴)のおっかさんは紫式部だと、僕らの仲間ではいっていたよ、といわれた。
才女とまではいわれなかったが、とにかく才気の勝った婦人だったことを、十分に認めていられた。
そのおっかさんは、書生を愛され、書生たちと話すのを好まれた。
まだ学生だった井上先生が訪問して、林太郎君はいますか、という。
おっかさんが出て来られて、林はいませんが、まあお上がりなさいよ、
わたしが お対手(あいて)しましょう、といわれる。
先生は、わざとあけすけと、林太郎君がいないなら帰りましょう。
あなたとなんぞ話したって詰まらない、という。
おっかさんは、まあひどいことをおっしゃる、という。
そんな風だったそうである。
ついでにここに、中川恭次郎翁から聴くところをも附記して置こう。
森さんへ行って話していると、おっかさんが出て来て、話の仲間入りをする。
森さんは、それがうるさいものだから、わざと卑猥(ひわい)なことを口にしたりして、おっかさんを引込ませる。
そんなこともありましたよ、とのことだった。
おとうさんは、と問うたら、井上先生は、好人物だった、といわれた。
そして同時に、幸田のおとうさんも、やはりそうだった、といわれた。
鷗外にせよ、露伴にせよ、おっかさんからのよい遺伝を、多分に受けていたといわれるであろう。
2018年10月26日に 「宮沢賢治の父と母」 と題して吉田直哉の文章を紹介しました。コチラです。↓
https://ameblo.jp/hitosasiyubidesu/entry-12407712741.html
青葉台公園(埼玉・朝霞)にて11月25日撮影。