「 お言葉ですが・・・❼ 漢字語源の筋ちがい 」
高島俊男 (たかしま・としお 1937~)
株式会社 文藝春秋 2006年6月発行より
どの階層でも、親は、子が将来安定した生活をできるように、と考える。
農民は田畑がある。 商人は店と顧客がある。
それを子につたえるのが最も確実である。
その職業についての知識や技術は、親が子に教えるのが個別具体的で一番能率的である。
読み書きソロバンの基礎はともかく、それ以上学校へ行かせるメリットは何もない。
明治の士族は失業者である。
かつて家代々の祿があったが、それは絶たれた。
子につたえるものは何もない。
余裕があろうとなかろうと、学校へやって、官吏か教員か何かになれるようにしてやるほかなかった。
明治前半のころ、士族の子弟が多く学校へ行ったことは事実だが、それは、学校へでも行くよりほか、将来の衣食の道の手だてがなかったからである。
概して言えば、士族家庭は農商家庭より貧しかった。
農商家庭の子があまり学校へ行かなかったのも事実だが、それは、将来の衣食に心配がなかったからである。
学校へ行くとどんな いいことがあるのか、当時はまだだれにも わかっていなかった。
しかるに、明治三十年ごろ以後、学校を出た者がいい地位について安定した多額の収入があって有利だ、というようなことが だれの目にもはっきりしてくる。
それで親は、子を学校へ行かせようと するようになるのである。
こんにちでも親は、子をなるべくいい学校に入れようとする。
しかしそれは決して学問を身につけさせてやりたいゆえではない。
就職にも結婚にも世間の見る目の点でも、それがトクだからである。
これがはじまったのが だいたい明治三十年代以降なのである。
天野郁夫 『学歴の社会史』 から ところどころ ひいてみよう。
< 商人たちが、あとつぎになる子どもたちに高い教育を与えることに
不熱心だったのも無理はない。なまじ学問をしたために、家業に身
を入れず、さらには家産を傾ける例は、少なくなかったからである>
< 学問は生計の手段とは無縁なものであった。 >
< このことは、明治三〇年代までの職業の世界での、教育や学歴の
地位を端歴に物語っている。>
< かれら 「没落士族」 はだれよりも早く教育が(・・・)メシの種にな
るということを、痛感させられた人たちだったのである。>
いつの時代にも、親が子のために考えるのは 「有利」 と 「安定」 である。
明治のなかば以後、この 「有利・安定」 と 「学校」 とが しっかりと結びついた。
だから親は、子どもを極力 上の学校へ行かせようとしはじめた。
それ以前からそうだったわけではないのである。
青葉台公園(埼玉・朝霞)にて11月25日撮影。