人差し指 ~著者は1967年にケント大学の客員教授としてイングランドにいましたから、その頃の話です。~
「 イギリスの小さな町から 」
加藤秀俊 (かとう ひでとし 1930~)
朝日新聞社 1974年12月発行・より
六月はじめのある日、プレイナムのはずれにあるウォーカー通りの空地に、二三台のトレーラーが到着した。
トレーラーといっても、これはかなり大型である。
なかが三部屋くらいに仕切られて、窓が四方についている。
それが空地に整然とならんで、どっしり腰をすえてしまった。
二三台のトレーラーのなかからは、およそ百人の男女、それに子どもたちがとび出して、完全に空地を占領してしまう。
縄を張って洗濯物を干しているのもあれば、火をおこして炊事をはじめるのもある。
流浪の民、ジプシーがやってきたのだ。
現在イギリスには一〇万ないし二〇万のジプシーがいると推定されている。
定着してふつうの市民生活にとけこんだジプシーもすくなくないが、こうして、祖先伝来の放浪生活をつづけている人たちもたくさんいる。
彼らはまったく予告なしに、こんなふうにふっとあらわれ、町の一角で生活をはじめてしまうのである。
乗物はジプシー独特の幌馬車から、アルミニウムのパネルを張ったトレーラーに変わったが、流浪のたましいはかわらないのだろう、
しかし一般市民のジプシーにたいする反応は決して好意的なものではない。
ジプシーが来た、というと、たいていの人が迷惑そうな顔をする。
町から追い出せ、という声があがる。
プレイナムでも、早速、追放の世論が高まった。
まず、ウォーカー通りに住むスミス夫人が町役場に苦情を申し立てた。
ジプシーの子どもたちが、彼女の家の裏庭の塀をこわしたというのだ。
町の小さな新聞には、こわれた塀を指して優うつそうな表情のスミス夫人の写真がのった。
協議会でも、すぐにジプシー問題についての動議が出された。バッキー議員が強い語調でこんなふうにいう。
「ジプシーがもちこむ諸問題についてはここであらためて申し上げるまでもありますまい。いまや季節は夏であります。これから暑い日々がつづくでありましょう。私が憂慮にたえないのは、彼らが当町に悪質の伝染病をもたらすのではないか、ということであります。われわれは彼らを町から即刻追放すべきだと考えます」
公衆衛生委員会の委員長ノーブル女史が意見をのべた。
彼女は、現在、伝染病に関しては調査中であることをのべ、かならずしもジプシーは不潔ではない、と論じたが、結局のところ、議会はジプシー追放を決定した。
ジプシーにたいするこのような反応は決してめずらしいものではない。
いや、バッキー議員のような立場は、プレイナムの多数派意見であるというばかりでなく、イギリス人の多数派をも代表するものだ。
イギリス人は伝統的にジプシーを嫌い、伝統的にジプシーを追放しつづけてきた。
古くはヘンリー八世によるジプシー追放の勅令もある。
ジプシーは、イングランドのどこへ行っても、安住の地がないのだ。
放浪はたぶんジプシーの本性ではない。
いたるところで追い出されるから放浪の旅をつづけざるをえないのである。
(略)
ところで、このジプシーたちは、どうやって生計を立てているのか。
ケントでは、夏の農繁期に農作業の手つだいをして金を稼ぐ。
目立たないところにトレーラーをとめれば、夏のあいだは大目に見てもらえる。
しかし、それだけではやってゆけない。
年間をつうじての職業は屑拾いである。 それで細々と生きている。
屑拾いのなかでいちばんカネになるのは金属回収である。
ポンコツ自動車だのこわれた電気製品だの、捨てられた金属がいっぱいある。 ジプシーはそれを拾う。
そして、金属回収に専業化し、ときにはまだ廃品になっていない自動車からバンパーを失敬してしまったりするイギリス版アパッチ族は、一般ジプシーと区別して 「ディディコ」 と呼ばれる。
プレイナムにやってきて即座に追放されたジプシーが農作業を求めてきた純粋ジプシーなのか、それともディディコなのか、わからない。
町の人たちにきくと、いや、あれはディディコにまちがいない、という。
しかしいずれにせよ、彼らは退去命令をうけると、しずかに荷物をまとめ、トレーラーの扉をしめて町から去って行った。
朝霞(埼玉)の花火大会 8月4日 中央公園にて撮影