「 人間の生き方、ものの考え方 学生たちへの特別講義 」
福田恆存(ふくだ つねあり 1912~1994)
株式会社文藝春秋 2015年2月発行・より
歴史というものも そうなのです。
歴史は既に存在してしまったものです。
われわれが歴史に対してこういう風であってもらいたい、こういう風に直したいと思っても、もうとり返しがつかない。
ところが、日本の歴史は既に存在しているということを、今の歴史家たちはどうやら忘れている。
つまり歴史は親みたいなもので、私達は日本の歴史の子供なのであります。
その子供の立場から過去の歴史を裁いていこうというものの考え方が既にまちがっている。
歴史をして私達に仕えしめてはならない。
私達が歴史に仕えなければならないのです。
ところが、今の歴史学者はすべて歴史を私達に、すなわち現代に都合のいいように仕えさせるというようなことをやっているわけです。
今日の歴史学者の多くは唯物史観を信じている人達です。
でも、一つの価値判断を持っていて、人間は永遠にユートピアを目指して進歩するという考えを持っています。
その場合、進歩という言葉の意味がまた問題になるのですが、それは後でふれることにして、とにかくある観点から一つの目的地を描き、その目的に都合のいいように歴史が動くと考えるわけです。
つまり、あらゆる時代は、常にその次ぎの時代に至るまでの 「はしご」 だと考え、その時代自身の自立性というものを否定してしまうわけです。
例えば、大化の改新によって、日本の古代国家は はじめて中央政権の体制に入った。
ところが それが貴族の手で行われたことが、左翼の歴史家には気にくわない。
それが民衆の手によって行われたことを望むわけですが、西暦645年頃に目ざめたる民衆が日本国家の統一を意思するなどと期待するのは
はじめから馬鹿な話です。
大化の改新は中大兄皇子と中臣鎌足が中心でしたが、皇室や貴族のような当時のエリートであり、知識階級であった人がそれをやったというのは、
当然のことです。
フランス革命でも、ロシア革命でも、中共の革命でも、すべてリーダーの手によって行われたので、大部分の大衆は、何が何だか分からないうちに世の中が変わったというのが本当で、左翼の人達の いうように、本当に民衆が目ざめて立ち上がったなどよいう馬鹿なことは今までに一度も行われた ためしがない。
民衆というものは よかれあしかれ そういうもので、時代の先覚者、指導者によって歴史は動いていく。
ところが、戦後は指導者によって歴史が動くことを全部否定して、大衆が歴史を動かしたという風に無理に解釈しようとした。
従って一時言われたように、人間不在の歴史、英雄を全部抹殺した歴史が教えられました。
そういう大きな間違いは、すべて今日の目で歴史を見ていて、歴史の、ある時代の中で生きていた人間の気持ちを全然無視することから起こるのです。
例えば最近 「乃木大将」 という映画を作るというので、その台本について相談をうけましたが、やはり今日の目で見ている面が随分強いのです。
乃木大将の時代は、大東亜戦争とか、民主主義とか、自由とか平和とか、原水爆とか、そういうものは思っても見なかった時代であります。
そういう中で、その時代の人達は精一杯生きてきた。
つまり、あらゆる時代にとって一寸先は闇であった。
このような人々が一寸先は闇という中で生きてきたということを今の歴史家は忘れているのです。
大東亜戦争も そのいい例ですが、もし遠眼鏡で見るように、ミズリー艦上の調印が見えていたら、誰も戦争は始めなかったに違いない。
自分だけには見えていたというインテリがおりますけれども、そんなはずはない。
また、敗戦後の今日のような経済的繁栄も、当時の人達には見えていなかったでしょう。
負けて、もう日本民族というものは滅亡するのではないかと悲観絶望している人たちもいたわけです。
つまり歴史というものは、その当時の人たちの中に入って見なければ分からない。
要するにわれわれは自分を歴史の方につき合わせなければならないのです。
マルクス主義の歴史観について山崎正和が書いていたので6月16日に 『マルクス主義は「復讐の哲学」 』 と題して紹介しました。コチラです。↓
https://ameblo.jp/hitosasiyubidesu/entry-12359368172.html
朝霞(埼玉)の花火大会 8月4日 中央公園にて撮影