聖書の口語訳がヒドイ・遠藤周作 | 人差し指のブログ

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「私にとって神とは」

遠藤周作(えんどう しゅうさく 1923~1996)

株式会社光文社 1988年11月発行・より

 
 
 
 はっきり言うと、口語訳の新約聖書   あの日本訳にはポエジー(詩)がないから、文章に魅力がない。
 
 
 
昔の文語訳のほうがまだきれいでした。正確を期そうと思って口語訳
になったのですが、正確になったかもしれませんが、美しさがなくなってしまいました。
 
 
 
文学をやった私にとっては、聖書の口語訳はほんとうに美しさがないと思います。
 
 
 
教会へ行ってお祈りすると時の祈りの文句なども、よくありません。
祈りというのはポエジーでなくてはならないと思います。
 
「田中太郎のために祈りましょう」
という言いかたは背筋に寒気を催します。
 
ポエジーがないからです。ポエジーがあったら、だれだって感動するはずです。
 
 
 ミサの中における決まった祈り、決まった共同的な言葉がありますが、
これなどもわかりやすくするためにというわけで、口語訳にしたのですが、私なんか聞いているとこれも寒気がします。
 
 
 
この間、聖書をもう一度きれいに訳す集まりをしようではないかという呼びかけがあったりしたけれども、それは一生かかってやる人がいなければだめだと私は言ったのです。
 
 
とにかく改めようとしている動きは確かにあることはあるのです。
 
(略)
 私の友人の作家がキリスト教の葬式に参列して、これもなかなかいいものだと思っていたら、牧師が 「なんとかさんは神にめされて」 と、説教みたいなことをやりだしたので、よくあんなそらぞらしいことを言えたもんだと思い、いやになったと言っていました。
 
 
しかし、日本人の感覚からすれば全くそらぞらしいようなことを言うのを改めようと思えば改められると思います。
 
 
私は小説を書く場合、キリストにふれても読者に寒気を起こさせないように努力しているつもりです。
 
 
だから、たくさんの人に読んでもらったのかもしれません。
 
 
キリスト教の出版物が二千、三千しか売れないというのは、日本人の感覚を逆撫(さかな)でするようなところがあるからかもしれません。
 
 
 
 
 
 
 
 
靖國神社(東京・千代田区) 3月26日撮影 後ろの高い建物は法政大学