横山大観が売れなかった頃 | 人差し指のブログ

人差し指のブログ

パソコンが苦手な年金生活者です
本を読んで面白かったところを紹介します

 

 

 

 

「随筆 私本太平記」 [新装版]

吉川英治 (よしかわ えいじ 1892~1962)

株式会社 六興出版 平成2年10月発行・より

 
 
 
 人形町の水天宮前に、おもしろい男だけにいつも貧乏ばかりしている百和堂という店がある。
 
 
 
ここの主人の沢という男は、今の横山大観と死んだ菱田春草とをコンビにして、絹本の尺五で七円か、八円の会費で、画会の田舎廻りをさんざんして歩いたというからずいぶん古い彩画屋で、その仲間の者なら誰でも知っていよう。
 
 
 
余談にわたるが、その頃、大観、春草、武山などをコンビにして、地方で画会などを開くと、席画を依頼に来る画会のお客が、武山や春草の前にばかり押しかけて、大観のところにはちっとも紙も絹も持って来ないという有様だったそうである。
 
 
 
そこで大観は時々ぽかんと手があいてしまい、会衆には、アノ先生は下手だから誰も頼まないのだという心理があるとみえて、よけいに武山や春草のほうへばかり絹や紙を積みかさね、何とも大観が手持無沙汰に見えて気の毒でしかたがない。
 
 
 
そこでよく、画会元の沢君などは、武山や春草のほうから依頼者の絵絹や色紙などをソッと抜いて来て、大観のほうに振り向け、自分もそばに取ッついて、大観が筆を執っていると、わざと側で、うまいなァ、さすがに何ともいえない所がありますなァ、と会衆をこっちの方に適当に寄せることに、ずいぶん気苦労をしたものですと、これはその沢君がよく述懐する思い出だった。
 
 
今でも何うかすると    いや何うかしないでも彩画の売立などを見ると、ずいぶんその時代の菱田春草と 「若かりし頃の大観」 のコンビが、いわゆる大観の若ガキと称せられて市場には姿を見せている。
                                               (昭和十二年)
 
 
 
 
1月15日 光が丘公園(東京・練馬)にて撮影