「信長 徹底分析十七章」
小和田哲男 (おわだ てつお 1944年~)
KTC中央出版 2003年5月発行・より
武士が登場し、封建制の時代になっても、前述したように、武士に土地が与えられ、その御恩に対する奉公という形での土地を媒体とした基本は変わらなかった。
御恩と奉公の関係が維持されたのは、日本がずっと農業社会だったからである。
それが、ここへきて、信長の登場によって大きく変わってきた。
信長の指導というか、誘導によって、武士たちの間にあった”土地神話”に大変化があらわれてきたのである。
土地以外のものに、土地と同じ、あるいはそれ以上の付加価値を認める動きである。
「茶の湯御政道」 といういい方をご存知であろうか。
信長がはじめてとり入れた方法であるが、茶会を開く権利を特別に許可するというやり方である。
これには、茶器に付加価値があるのが前提となっていて、手柄のあった家臣に、信長が名物茶器を与え、それと同時に茶会を開いてよいというものである。
つまり、それまでだと、手柄があったたびに恩賞として知行地、すなわち土地を与えられ、その土地の大きさで、重臣としてのランクも決められていた。たとえば、五百貫文の家臣より、一千貫文の法がランクが上という形である。これが、石高になって、十万石の家臣より二十万石の法が上であるというのも同じである。
ところが、信長は、恩賞を土地だけでなく、茶器を与えるという 「茶の湯御政道」 にも一歩ふみ出している。
有名な例なので、ご存じの方も多いと思われるが、天正十年(1582)三月の武田攻めのとき、信長は手柄のあった家臣たちに褒美を与えているが、滝川一益は上野(こうずけ)一国と信濃の作久(さく)・小県(ちいさがた)の二郡が与えられ、厩橋(うまやばし)城主に任じられた。
しかも関東管領というポストも与えられ、破格の栄転といってよかった。
ところが、当の滝川一益は、それら所領よりも、名物茶器の 「朱光小茄子(しゅこうこなすび)がほしかったと述懐しているのである。
これは、やや極端な例かもしれないが、人びとが、土地だけに価値を認めなくなってきた状況は読みとることができるであろう。