[新装普及版] 「財運はこうしてつかめ」
渡部昇一(わたなべ しょういち 昭和5年~平成29年)
致知出版社 平成16年9月発行・より
「日本の英語教育は畳の上の水練だ。中学高校の六年間、英語を勉強してもろくに会話することもできない」
とはよく言われることである。
文法や英単語の暗記などに時間を費やすのを止めて、英語を母語としている外国人コーチから実践的会話を学んだほうがいいという意見は根強い。
だが、そうした意見に私は反対である。
話せる英語を身につけるのであれば、文法よりも実践のほうが役に立つ。
だが、それははたして 「教育」 なのだろうか。
英語を話せるのが偉いのなら、
アメリカやイギリスでは三歳の子どもでも英語を話す。
それは極端としても、英会話とは結局、英語で意思が通じさえすればいいのであれば、何も教師から学ぶ必要はない。
単身、アメリカに留学して半年も自活すれば、誰でも買い物のできる程度は英語を話したり、聞いたりすることができるのだから。
中学や高校で英語を学ぶ目的は、英語で話したり、聞いたりする能力を身に付けることが主ではない 英語を専門とする私がこう言うと、自己否定のように思われるかもしれない。
もちろん英語の読解力や作文が身に付くに越したことはないが、それよりも大事なのは若いころに外国語に真っ向から取り組むことによって知的能力を鍛えることなのだ。
母国語ではない言語の文法や単語を覚えるのは、けっして楽なことではない。
比喩的に言えば、外国語とはふだんは使わない部分の脳みそを使わなければならないからだ。
しかし、楽ではないからこそ、それをやり遂げたときに効果が出てくる。
これは運動でも、知的活動でも同じことである。
長距離を走るのはつらく、歩くのは楽である。
しかし、楽だからといって、歩いてばかりいては 健康維持にはいいかもしれないが いつまでも経っても身体能力は向上しないのではないか。
どこの文明国でも外国語や古典語の学習が教育の主軸に据えられていたのは、経験的にそうしたことが分かっていたからではないだろうか。
実用的な英会話が大事というのは聞こえがいい、
だが、それが 「面倒なこと、疲れることは避けたい」 ということになってしまっているのでは、教育としては大いに問題があると思うのである。
2016年8月31日に~「外国語を学ぶ態度」日米の違い~と題して鈴木孝夫の文章を紹介しましたコチラです ↓
https://ameblo.jp/hitosasiyubidesu/entry-12193553187.html
朝霞(埼玉)の花火大会 8月4日 中央公園にて撮影