「大人の読書 一生に一度は読みたいとっておきの本」
谷沢永一(たにざわ えいいち)/渡部昇一(わたなべ しょういち)
PHP研究所 2009年3月発行・より
<谷沢> 渡部先生が、日本文化について論じるとき(『日本語のこころ』)に、まず 「歌の前の平等論」 というセオリーを打ち出されますが、つまり、その原則がここで生き返るのです。
連歌の場合は、連衆が比較的に身分が同じことが多いですが、
俳諧となると、それはもう何が出てくるかわからない。
その意味でも、芭蕉の影響というのは決定的です。
だから小西甚一先生は、全五巻の 『日本文藝史』 を通じて、芭蕉を最高に評価しています。
ところで、津田左右吉が 『文学に現はれたる我が国民思想の研究』 という有名な本を書きます。
この本は、日本文学通史を初めてやった本ですが、
内容を読むと全部 「しかしこれはダメだ、けれどもこれはダメだ」 と、全部 「but」 がつくのです。
もう、世阿弥であろうが芭蕉であろうが全部ダメ。
たった一人 「but」 のつかなかったのが一茶です(笑)。
これは長年の疑問でして、津田左右吉という人が文学がわからなかったということはだいたい感じ取れるんですが、その原因は何かがわからない。
これを解明したのが丸谷才一です。
つまり、これは明治自然主義の文学観であったのだと明快に喝破した。
ただ若き日の丸谷才一のこの論文は、あちこちの出版社で全部蹴られた。
つまり、津田左右吉に槍を向ける原稿を載せる雑誌はなかった。
<渡部> 大学二年生のときに源氏を読む授業があった。
それでレポートを書かなければならないので津田左右吉を読んだけれども、まあ内容の空疎なこと(笑)。
何かレポートに書こうと思って読んでも、引用するところなどどこにもなかった。
<谷沢> ないでしょう。
鈍感というか、感動しない人なんですね、あの人は。
極端に言うと、論語研究であろうが、道教の研究であろうが、全部ケチをつけるために本を精読するという奇妙な人です。
丸谷才一の論文の戻ると、さんざん突っ返されたけれども、とうとう晶文社から小野二郎の企画によって 『梨のつぶて』 という処女評論集が出されたときに、やっと書き下ろしで入れたわけです。
私は評論としては、これは立派なものだと思います。
自然主義文学の文学観だというのは、盲点を衝かれました。
それを、ズバリと言うところが、やはり評論家です。
6月6日 光が丘公園(東京・練馬)にて撮影
「虫だって新鮮なほうへ行きたい」