「小沢一郎は背広を着たゴロツキである。私の政治家見験録」
西部邁(にしべ すすむ 1939~)
株式会社飛鳥新社 2010年7月発行・より
それからどれくらい経ったのか、たぶん十年は経っていないであろう、産経新聞社の雑誌 『正論』 編集長の相川二元(つぐもと)氏から、田中真紀子さんと対談してほしい、と申し込みがあった。
それまでに早坂氏との顛末(てんまつ)を、お喋りの私のことだから、相川氏に話していたのに違いない。
またぞろ三十秒でイエスといい、真紀子さんも快諾したとの報(しら)せもすぐにあった。
いずれにせよ、お嬢さんとの対談となったのは、角栄氏がすでに脳梗塞の病に倒れていたからである。
対談当日の朝、相川氏からあわてた調子の電話が入った。
「真紀子さんから、”子どもたちを林間学校に連れていかなければならないんで対談はキャンセル”との電話があった」
というのである。
「逃げた、ということでしょうね」 との解説もつけ加えられた。
私は 「当然です、僕だって逃げたかったんだから」 と応じた。
これは後日談だが、その何年後かにかの越山会で私が講演に赴いた折、真紀子さんが最前列に座っていた。
彼女は越山会幹部らしき老人たちとギャオギャオと喋(しゃべ)りまくり、そのギャオギャオの音程は私が講演を始めても少しも下がらなかった。
私は、こりゃかなわんと思いつつ、「ウルセェ、頼まれたからやってきたんだ。聞いた振りくらいしたらどうなんだ」 と最前列を見下ろして言いはなってみた。
しかし、何の効果もなかった。
彼女はチラリとこちらを見上げただけで、そのギャオギャオを止めようとはしなかった。
私は 「こりゃかなわん。しかしここで帰ったんじゃ、千人も集まった会場のこと、後部座席の人々には何のことかわからんだろう」 と思い、話を続けた。
と同時に、あの対談キャンセルのことなど、彼女には一片の記憶もないのだろうと考えて、さらに、かなわんなあと思いもした。
角栄氏とも真紀子さんとも対談成就(じょうじゅ)とゆかずに、本当によかったと今にしてあらためて思う。
というのも、もし会ってみても、何の成果もないのはむろんのこと、
彼我(ひが)のあまりの隔(へだ)たりに呆然とするばかり、となったであろうことは疑いないからである。
どちらが上か下か、右か左かということではなく、辞書なしの異国語の喋りっ放し、といった文句なしの言語空間の隔たりの体験、それは
「消えることのない精神的外傷」 という意味でのトラウマになったに相違ない、と後追いで思うのだ。
6月6日 和光市内(埼玉)にて撮影