「お金だけが知っている 目からウロコの経済学」
邱永漢(きゅう えいかん 1924~2012)
PHP研究所 2003年12月発行・より
私は日本の植民地だった台湾に生まれて育ったので、
日本語と台湾語を子どものときから覚えた。
家に帰ると台湾語、学校に行くと日本語だったので、
しぜんに二つの言葉を使い分けることができた。
台湾人の子弟の大半は台湾語だけの家庭に育ったので、学校に行って教科書に向かうときだけ声をあげて日本語を読んだが、友だち同士で喋るときはつい台湾語になった。
それを禁ずるために公学校という台湾人の行く学校では台湾語を喋ったら罰金をとる制度を設けていた。
私は内地人と呼ばれた日本人の小学校に通わされたので、台湾語を喋る同級生がいなかったからそうした心配がなかった。
しかし、正しい日本語を覚えたつもりでいても、じつは私の覚えた日本語は九州弁だった。
台湾にいちばんたくさん来ていた日本人は九州の人で、私はその人達の喋る日本語をうっかり日本語だと思い込んでいた。
あるとき、私は文章のなかで’膝坊主’と書いたことがあった。
雑誌社の人が私の原稿に手を入れて、’膝小僧’と書きなおした。
私が抗議を申し込むと、日本語に膝坊主という言葉はありません、という。
なるほど字引きを引くと、たしかに膝小僧という言葉はあるが膝坊主という言葉はない。
でも、台湾にいたころ、私の周囲の日本人はみな、膝坊主といっているはずだ、どうして膝坊主という言葉がないのだろうかと首をかしげた。
直木賞をもらってしばらくたってから、ラジオの番組を受け持つようになり、ときどきファンレターが来るようになった。
あるとき、もらった手紙を見ると、「私は熊本から東京に来て働いていますが、センセイの九州なまりを聞いていると故郷に帰ったような懐かしさでいっぱいになります」 と書いてあって、はじめて自分の日本語が九州弁であることを知ってびっくりした。
しばらくたって、講演を頼まれて博多に行ったので、思いついて自分の膝を指して 「このところを何といいますか」 と聞いたら 「膝坊主です」 という返事が返ってきたので、やっと納得がいった。
それにしても 「膝小僧がなんで九州に行くと膝坊主になるんだろうか」 と、ひとりで考えているうちに自分なりに頷いた。
「南のほうに行くと暖かくて植物も動物も育ちが早いから小僧もきっと坊主になってしまったのだろう」 と。
5月18日 光が丘 四季の香公園(東京・練馬)にて撮影