~ この対談は昭和45年11月18日におこなわれたもので、三島の自決は7日後の25日です ~
「決定版 三島由紀夫全集 40」
三島由紀夫(みしま ゆきお 1925~1970)
株式会社新潮社 2004年7月発行・より
三島由紀夫 最後の言葉
[古林尚・三島由紀夫]
<古林> そこで、私の目から見るとどうもポジティブであり過ぎる三島さんが、否応なしにネガティブにさせられた事件 例の 「宴のあと」 裁判について聞いておきたいのですが・・・・。
<三島> そうですね・・・・・。
<古林> 国家的秩序の不合理な暴力性というようなものは感じませんでしたか。
<三島> ぼくはあの一件で、裁判というものを信じなくなりました。
もう実にマヤカシものだと思いました。 いい体験でしたよ。
と言うのはね、あれがアメリカ式の陪審制度だったら、きっとぼくが勝っていたと思います、未(いま)だに。
有田八郎さんには、「馬鹿八と人はいう」 という著書があるんですが、法廷で弁護士から 「三島に署名入りで本をやったか」 という質問がでた。
有田さんが、「とんでもない、三島みたいな男にだれが本なんてやるもんか、だいたい鴎外や漱石のような作家ならともかく、そこらの三文文士なんかに・・・・」
「確かに本なんか差し上げませんね、もしやっていらっしゃったらある程度三島の作品を認めたか、あるいはよく書いてもらいたいというお気持ちがあったと考えてよろしいですね」
「そのとおりですよ。もしやっていたらそう思われるのも無理はありますまい」
「で、おやりになりましたか?」
「絶対、そんな馬鹿なことするわけないじゃないですか」。
そしたらこっちの弁護士がスーッと出したんですよ、「三島由紀夫様、有田八郎」 という署名本を、ぼくは持っていたんですよ。(笑)
傍聴席も驚いていましたよ。
だから、あの時点でね、もし陪審制度ならばきっと勝っていたのに相違ない。
しかし裁判所の判断は違うんですね、つまり有田さんがご老体であることやら、その社会的地位やら、名声やら、その他いろんなことを配慮するんですね。
そんなことは憶測したってしようがありませんが・・・・・。
<古林> 法曹界には、いまだに政治を第一義的なものと考えて、文学などは二義的な遊びだという意識が強いんでしょうね。
<三島> 強いですね。
裁判官がね、「有田さん」 と呼ぶんですが、ぼくには 「三島」 と言うのです。民事訴訟ですから、原告・被告はまったく同格であるべきなのに、刑事訴訟のように 「三島」 と呼び捨てなんです。
ときどき気がついて 「三島さん」 と言うんですが、すぐにまた 「三島」 になっちゃう。(笑)
<古林> 文学者の社会的地位は戦後になって目ざましく向上したと言われていますが、やはりまだ放蕩無頼の徒と見られているんですね。
体制の内側にいる権力者たちからは・・・・。
<三島> これは国家と文学の永遠の問題でしょう。
口ではうまいことを言いますが、腹の中じゃそうですよ。
三島由紀夫対談 いまにわかります 死の一週間前に最後の言葉<初出>図書新聞・昭和45年12月12日
戦後派作家対談7もう、この気持は抑えようがない 三島由紀夫 最後の言葉 <初出>図書新聞・昭和46年1月1日
三島由紀夫 最後の言葉<初刊> 三島由紀夫全集補巻1・新潮社・昭和51年6月
6月16日に 「最高裁の判決なんて」 という題で曾野綾子の文章を紹介しましたコチラです ↓
https://ameblo.jp/hitosasiyubidesu/entry-12283651831.html
6月6日 光が丘公園(東京・練馬)にて撮影