「わが切抜帖より」
永井龍男(ながい たつお 明治37年~平成2年)
株式会社講談社 昭和43年2月発行・より
初対面の中原中也は、よごれたゴムまりをぬれ雑巾(ぞうきん)でひと拭きしたような顔をしていた。
それに、つばの狭い黒のソフト帽をのせ、つりがねマントを着ていたかも知れぬ。
当時十八歳だったが、小柄なのでなお少年に見え、不敵さがあらわであった。
初印象は、なにか、いたく不吉な感じであった。
時折り光る相手を小ばかにした眼の動きとか、俗世間を無視した態度が、不敵さを感じさせるにもかかわらず、ながく日の目を見ないのか皮膚の色とか、ゴールデンバットの脂(やに)にしみた指とかいうものが、少年であるにもかかわらずそのような印象を残したに違いない。
もう四十年前の大正十四年五月、小林秀雄が連れてきて会った。
(略)
そのころ小笠原島の旅から帰ったばかりの小林が、「海であろうと山であろうと、色彩なんてものは、小笠原へ行って来なきゃわかるものか」 と、
さっそうと口外したのを覚えているが、京都から上京した中原との交友も、ちょうどその直後にはじまった。
中原中也という天才的なダダイズムの詩人がいる。
中学生のくせに女優と同棲していると、会う前から話しは小林に聞いていたと思う。
彼らの友情は急速に深まり、東京の街中を詩論をたたかわせながらそぞろ歩き、疲れるとだれかもよりの友人を訪ねて一服するという毎日だったので、小林につながる友人は、一応みな中原を知った。
(略)
この男は、この程度の男だと見込んでからの中原は、傍で見ていても辛くなるほどの扱いをおくせずした。
ネコが獲物のネズミをもてあそぶように、前から後から相手を翻弄した。
中原自身はそのような遊びを、相手にさとられず巧妙に試みているつもりらしく、仕済した顔でいたが、これほど敏感な男が相手の傷に気づかない。
私に対しても、彼の遊びは例外ではなかったが、私はそう思ってわずかに自分をなぐさめた。
中原の評判はどこでも悪かった。
友人はとにかく、その家族たちは、すべて彼を嫌悪した。
どういう生理からか、中原はしつこくツバを吐く癖があり、人前をはばからずその場の灰皿なぞを用いた。
それがまたお前たち俗人に接していると、という風にとれる仕草にも見えた。
黄疸の気があったらしく、一時は彼の手に触れるものはすべて、黄色を残すと思われるほどのこともあった。
(略)
四十年経ったいまも、「不吉な」 という初印象はぬぐいがたい。
(昭和四十一年四月十一日・朝日新聞)
~そんな中原中也がこんな美しい詩を作るのです(人差し指)~
「一つのメルヘン」
秋の夜(よ)は、はるかの彼方に、
小石ばかりの、河原があつて、
そこに陽は、さらさらと
さらさらと射してゐるのでありました。
陽といつても、まるで珪石(けいせき)か何かのやうで、
非常な個体の粉末のやうで、
さればこそ、さらさらと
かすかな音を立ててもゐるのでした。
さて小石の上に、今しも一つの蝶がとまり、
淡い、それでゐてくつきりとした
影を落としてゐるのでした。
やがてその蝶がみえなくなると、いつのまにか、
今迄(いままで)流れてもゐなかつた河床に、水は
さらさらと、さらさらと流れてゐるのでありました・・・・・
5月18日 光が丘 四季の香ローズガーデン(東京・練馬)にて撮影