三島が大嫌いな太宰に会ったのは文中、太宰の斜陽の連載が終わった頃と書かれていますから1947年頃です。太宰は38歳、三島は22歳ぐらいでしょうか。
「決定版 三島由紀夫全集 32」
三島由紀夫(みしま ゆきお 1925~1970)
株式会社新潮社 2003年7月発行・より
もちろん私は氏の稀有(けう)の才能は認めるが、最初からこれほど私に生理的反撥を感じさせた作家もめづらしいのは、あるひは愛憎の法則によつて、氏は私のもつとも隠したがつてゐた部分を故意に露出する型の作家であつたためかもしれない。
(略)
そんなこんなで、私の太宰文学批判があんまりうるさくなつてきたので、友人たちは、私を太宰氏に会はせるのに興味を抱いたらしかつた。矢代氏やその友人たちは、すでに太宰氏のところへたびたび出入りしてゐて、私をつれて行くのは造作もなかつた。
(略)
私は多分、絣(かすり)の着物に袴(はかま)といふやうな恰好(かつかう)で、ふだん和服など着たことのない私がそんな恰好をしたのは、十分太宰氏を意識してのことであり、大袈裟に云へば、懐ろに匕口(あひくち)を呑んで出かけるテロリスト的心境であった。
場所はうなぎ屋のやうなところの二階らしく、暗い階段を昇って唐紙をあけると、十二畳ほどの座敷に、暗い電灯の下に大ぜいの人が居並んでゐた。
あるひはかなり明るい電灯であつたかもしれないのだが、私の記憶の中で、終戦の或る時代の 「絶望賛美」 の空気を思ひ浮べると、それはどうしても、多少笹くれ立つた畳であり、暗い電灯でなければならないのだ。
上座には太宰氏と亀井勝一郎氏が並んで座り、青年たちは、そのまはりから部屋の四周に居流れていた。
私は友人の紹介で挨拶をし、すぐ太宰氏の前の席に請ぜられ、盃をもらつた。
場内の空気は、私には、何かきはめて甘い雰囲気、信じあつた司祭と信徒のやうな、氏の一言一言にみんなが感動し、ひそひそとその感動をわかち合ひ、又すぐ次の啓示を待つ、といふ雰囲気のやうに感じられた。
(略)
私は来る道々、どうしてもそれだけは口に出して言はうと心に決めてゐた一言を、いつ言つてしまはうかと隙(すき)を窺(うかが)つてゐた。
しかし恥ずかしいことに、それを私は、かなり不得要領な、ニヤニヤしながらの口調で、言つたやうに思ふ。即ち、私は自分のすぐ目の前にゐる実物の太宰氏へかう言つた。
「僕は太宰さんの文学はきらひなんです」
その瞬間、氏はふつと私の顔を見つめ、軽く身を引き、虚をつかれたやうな表情をした。
しかしたちまち体を崩すと、半ば亀井氏のはうへ向いて、
誰へ言ふともなく、
「そんなことを言つたつて、かうして来てゐるんだから、やつぱり好きなんだよな。なあ、やつぱり好きなんだ」
これで、私の太宰氏に関する記憶は急に途切れる。
気まづくなつて、そのまま匆々(そうそう)に辞去したせゐもあるが、太宰氏の顔は、あの戦後の闇の奥から、急に私の目前に近づいて、又たちまち、闇の中へしりぞいてゆく。
あの打ちひしがれたやうな顔、そのキリスト気取りの顔、あらゆる意味で
「典型的」 であつたその顔は、ふたたび、二度と私の前にあらわれずに消えてゆく。
私もそのころの太宰氏と同年配になつた今、決して私自身の青年の客気を悔いはせぬが、そのとき、氏が初対面の青年から、
「あなたの文学はきらひです」
と面と向つて言はれた心情は察しがつく。私自身も、何度かさういふ目に会うふやうになつたからである。
思ひがけない場所で、思ひがけない時に、一人の未知の青年が近づいてきて、口は微笑に歪(ゆが)め、顔は緊張のために蒼(あを)ざめ、自分の誠実さの証明の機会をのがさぬために、突如として 「あなたの文学はきらひです。大きらひです」 と言ふのに会ふことがある。
かういふ文学上の刺客に会ふのは、文学者の宿命のやうなものだ。
もちろん私はこんな青年を愛さない。こんな青臭さの全部をゆるさない。
私は大人つぽく笑つてすりぬけるか、きこえないふりをするだろう。
ただ、私と太宰氏のちがひは、ひいては二人の文学のちがひは、私は金輪際(こんりんざい)、「かうして来てるんだから、好きなんだ」 などとは言はないだらうことである。 (私の遍歴時代)
昔のことなので、どこに発表されたのか忘れてしまいましたが 三島は太宰について、こんなことも 言ってました。
「太宰の悩みは朝のラジオ体操で解決する」
この発言、・・・・・・・・・・私、結構好きなんですよね。
4月22日 光が丘(東京・練馬)にて撮影